サンクチュアリ

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恋人を亡くし、自分を傷つけることで安心を得る女の子の話。

サクライハナカ [KIkzW-uAqPA-euoXQ-uYqrE] 2001/04/18(水) 01:28:50

サンクチュアリ
一度だけ、たったいちどだけ、トモと明け方の海に来たことがある。
二人だけの初めての旅行が嬉しくて、寝つけずにいたあたしたちは、
まだ薄暗い、真夏の朝の空気の中で、たくさんの話をした。
波の音は、おだやかにあたしたちの中に響いた。
あたしは、ふいに言った。
「死んじゃうなら、こんな夏の朝がいいな」
横に座っているあたしの身体を自分のほうに引き寄せながらトモが聞く。
「なんで?」
トモの目は、海の向こうの方を見てた。
「だって、こんな青い空気にとけながら死ねるなら、あたしは嬉しいな。」
なんでそんなことを言ったのか分からない。
ただ、その時はただ純粋にそう思ったのだ。
トモは「なに言ってんの」と笑った。
だんだんと空が明るくなってくるのがわかった。
もうすぐ、また新しい朝がやってくるのだ。
夏は、まだ始まったばかりだった。
あたしたちは、旅館の朝ご飯を楽しみにしながら、手をつないで帰った。
今日は、昼まで寝た後、午後は、また海に入って。
夕方から、花火大会に行く。
そういう予定を立てた。
今日も暑い日になりそうだった。


 トモが死んだのは、桜の花びらが、まるで降っているかのように舞い落ちる日だった。
あの日から、あたしの見るものの全てが色を失っている。
病院に行く途中の車の中から見た、桜。脳裏に焼き付いている鮮やかなピンク色。
ああ、そういえばあの日は満月だった。
そんなことを思い出しては、泣いてばかりいた。
部屋にこもって泣きっぱなしのあたしを見かねた母が、買い物に連れ出してくれたり、
あたしや、トモの友達が遊びに来てくれたり。
周りの人の優しさが、あったかかった。
でも、いろんな人に会うたびに。
いろんな所に行くたびに。
あたしは思い知るのだ。
もうトモはいないこと。
あんなに大好きだったひと。
あの低い、鼻にかかった声も。
キレイなものを映し出すあの、大きな手も。
ちょっと猫背な背中も。
もう無いのだ。
触れることもできない。


 トモとは、高校一年の時の、文化祭で知り合った。
ふと入った美術室で、あたしは展示してあった一枚の絵にくぎ付けになった。
湖に映る、空。
青いキャンバス。
今もトモの部屋に飾ってあるその絵を、あたしは、ひと目で愛した。
キャンバスに収まりきれない、その青は、あたしがこの世で一番好きな色だ。
そして、その色を作り出すトモのことも、愛していた。
トモも、あたしのことを、きっと世界で一番好きでいてくれていたのだと思う。

初めて一緒に眠った日。
あたしは、トモの鉛筆を走らせる音で目を覚ました。
トモは、あたしが起きたのに気付くと、スケッチブックを破いて、一枚の絵をくれた。
そこには、実際よりもちょっとおっぱいの大きい、あたしの寝顔が書いてあった。
「エリカ裸部」
ラブと、もじってあるんだろうか?そんなバカっぽいタイトルと、その下に小さな字で、
「初めてのエッチはよかった?」と書いてあった。
思わず殴った。
トモといると楽しかった。
時間がおだやかに流れていくのがわかるくらい。
毎日、笑ってばかり。
あたしは、幸せだった。


  手首を切ったのは、別に死にたかったからじゃない。
最後のとき、トモは、痛かったのかな。
ただ、そんなことを考えてしまっただけなのだ。
机の引出しから、カッターを取り出して、横にゆっくりと引っ張ってみる。
血は出なかった。
今度は、とがっている先端で、ガリガリと引っかいてみる。
少しずつ、じわじわと血が滲み出してくる。
ちりちりと、痛む。
押し当てたティッシュに、あたしの血がだんだん染み込んで、赤い模様を作っていく。
傷口に、くちびるをそっと近づけると、脈がどくんどくんと、正確なリズムを刻んでいるのが
わかって、なんだかほっとした。
その夜は、バンドエイドを貼りつけて眠った。
久しぶりに、朝まで眠れた。
明け方、夢を見た。
高校一年の文化祭。
美術部の展示スペースで、背の高い男の子に、アンケートを書かされた。 
「どの絵がよかったですか?」
あたしは、迷わずあの絵を選んだ。
それを見ていた、さっきの男の子が、嬉しそうに言った。
「それ、俺が描いたんだ」
そこから始まった恋が、こんな形で終わってしまうなんて、誰がわかっただろうか。
夢の中のあたしは、全てを知っていた。
トモがもういないことも。
あたしだけが残されることも。
画家を目指していたトモが、初めて賞を取った日に訪れた、皮肉な運命も。
事故の次の日、現場だった交差点に残っていた、トモの流した血の色も。


 あの、思い出の海は、ちっとも変わっていなかった。
2年前に、トモと来た海。
あの時も、今と同じで、夏の始めだった。
海へ下る階段の隅っこに腰を下ろして、水平線を眺める。
小さな港の近くの海岸で、いわゆる観光地では無いためか、夏休み前の平日の今日は、
あたし以外に、人はぜんぜんいなかった。
車椅子の男の子と、その両親だろうか?
優しそうな男の人と、女の人が、並んで海を見ていた。
なんだか、いい光景だなぁと思った。
きっと、あの家族にもいろいろ辛いこともあったんだと思う。
だけど、両親の、男の子を見守る目が、とても優しい。
あれは、乗り越えた強さなんだろうか?
あたしも、いつかはこの悲しさを、トモをなくした辛さを、過去のこととして、
振り返ることができるのかな。
そんなことも思ったけど、まだあたしには無理だ。
だって、トモのことを考えただけで、涙があふれる。
止まらない。
あたしの身体は、いろんなところが壊れていってるのかもしれない。
男の人が、車椅子を押して、あの家族は、海沿いを歩いて行ってしまった。
この浜辺で、あたしは一人きりになった。
海まで下りると、あたしはバッグからカッターを取り出して、おもむろに手首を切った。
今度は、この間より深く切ったようで、一度で、真っ赤な血が太い線になって流れた。
しゃがみこんで、海の中に付けると、鮮血が、水の中に一瞬だけ広がって消えた。
まるで、トモの描いた絵のようだった。
湖に映る青。
海に広がる赤。
その色がもっと見たくて、だんだんと傷口の幅を広げていった。
あまり痛みも感じずに、切ってしまった。
どくどくと流れる血を見て、ちょっとくらっとした。
死にたいんじゃないの。
消えたいんじゃないの。
トモの描いた絵が見たい。
声が聞きたい。
トモに会いたい。
ただ、トモに会いたいだけなの。
「会いたいよ・・・」
会いたいよ。


 もともと虚弱気味なあたしは、少し貧血を起こしたようだった。
耳鳴りの音がすごく大きい。
こめかみで、脈がいつもより速いペースで波打つのが分かる。
手首から、その鼓動の音にあわせて血が流れ出す。
すごく気分が悪い。
あたしは、しゃがんでいることもできなくなって、砂浜に倒れこんだ。
目の前まで、波が押し寄せてくる。
小さな貝殻が、波に巻き上げられて、海の中へ沈んでいった。
このままでいたら、あたし死んじゃうのかな。
怖くはなかった。
後悔も別にしてない。
あ、いっこだけあるな。
お母さんにお別れを言ってこなかった。家族にも。友達にも。
心配かけると思って、誰にも言わずに、ここへ来たから。
今頃、心配してるかな?みんな。
トモも。心配してるかな?
このまま、あたしが死んだら、怒るかな?
いいや。怒られても。一緒にいられるなら。
死んだっていい。
もし、天国があるなら。トモと一緒にいられるなら。
あたしは、死んじゃうことなんかちっとも怖くないんだ。
最後に見たのは、夏の、青い空。
あたしが大好きだった、トモの色。
青。青。青。
あたしは、そっと、目を閉じた。


 どれ位時間がたった頃だろうか?
それからすぐだった気もするし、ずいぶん長い間あそこに横たわっていた気もする。
「エリカちゃん」
呼びかけられても、あたしはその言葉を理解するまでに結構な時間がかかった。
「エリカちゃん」
エリカは、あたしの名前だ。
 だけど、あまりの気持ち悪さに、返事をすることもできない。
誰?あたしのことを呼ぶのは。
必死にまぶたを開けようとする。
その時、ふいに抱き上げられた。
驚いた拍子に、あんなに重かったまぶたが開いた。
その瞬間、あたしは、ほんとに気が狂ったのかと思った。
嬉しいとか、悲しいとか、そんな感情は思い出せなかった。
ただ、呆然としていた。
その目。
その顔。
見覚えがある。
忘れるわけない。
あたしの目の前に、トモがいた。
「大丈夫?」
あたしは、その声に抱かれて、だんだん意識が無くなっていくのがわかった。
あたしは、いよいよおかしくなったのかもしれない。
でも、確かに、その腕の感触は、トモだった。


長い夢を見ていた。
とてもしあわせな夢。
今より、ちょっと大人になったあたしとトモ。
二人で、楽しく笑いながら暮らす。
トモは、大きなキャンバスに筆を走らせて、その横のキッチンで、
あたしは、彼のために沢山の料理を作る。
それを食べながら、好きな音楽を聴いて。
夜になったら、家中の明かりを消して。
窓から入る、月のひかりの下で、沢山のおしゃべりをするの。
今日あったこと。週末の予定。
二人きりがさみしくなってきたら、子供を産みましょう。
家族で、旅行に行ったりもして。
トモは、いいお父さんになって、子供の世話をしてくれて。
ふたりで、あったかい家庭を作って。
そして、永遠に幸せに暮らすの。
あたしは、ハッピーエンドだけが欲しかった。

眩しい光が、まぶたの上をくすぐる。
現実のリアルな感覚が、次第に夢の中に入り込んできた。
左の手首が、ズキズキと痛む。
あたしは、怖かった。
目を開けてしまうことが。
いつもいつも。
現実に戻ることが、何より怖いことだった。
だけど、起きた。この悲しみは、もうなれっこだった。
のどが、カラカラに乾いていた。
あたしは、ベッドの上にいた。
知らないベッドだ。
知らない布団。知らないカーテン。知らない家具。
だけど、この部屋は、どこか見覚えがあった。
フローリングの床。大きな窓。
ほぼ真四角の部屋。
それらを、一つ一つ見ているうちに、あたしはだんだんと思い出した。
身体を起こして、そっと床に足をつけてみる。
立つと、かなりの立ちくらみがした。
なんとか持ちこたえて、あたしは、迷わずキッチンの方へ向かった。
手首に、包帯が巻かれていた。
差し込んでくる朝の光の中で、真っ白い包帯が眩しかった。

あたしは、この部屋を知っていた。
このフローリングの感触も、入ってくる風のにおいも。

キッチンに続くドアを開けると、そこには慧太君がいた。
トモと同じ血が通っている、違う人。
テーブルで、新聞を読んでいた慧太君は、あたしに気づくと、顔を上げた。
「おはよう」
あたしは、小さな声で「おはようございます」と呟いた。
慧太君は、あたしを椅子に座らせると、冷たいミルクティーを出してくれた。
「久しぶりだね、エリカちゃん」
甘い、甘いミルクティーを飲みながらあたしは思った。
ああ、あたしのことをエリカちゃんって呼ぶのは、そう言えばこの人だった。
左手の傷が、ずきりと痛んだ。

慧太君は、トモの三つ上のお兄さんで、大学で海洋学を勉強してる人だ。
学校の近くで、一人暮しをしていて、あたしとトモは、二年前の旅行中、
この部屋へ立ち寄ったのだ。

あたしの家は、その頃、両親が別居に踏み切るかどうかの瀬戸際という感じで、
居心地が悪かった。
知らない女の人と不倫している父とも、泣いてはあたしに愚痴る母とも一緒にいたくなかった。
そんな時、トモがあたしを連れ出してくれたのだ。
一泊の旅行で物足りなかったあたしたちは、しばらくの間、この部屋で泊まらせて
もらうことにした。

慧太君は、気を利かせて、友達の家に行っていてくれたので、あたしとトモは、
つかの間の同棲生活を楽しんだ。
今と比べて、何にも無かったこの部屋は、不便だったけど、あたしたちは、よく寝て
よく食べて、よく遊んだ。
朝起きると、海に散歩に行って、二度寝して、海に入って、夕食の材料を買ってきて、
二人で作って食べた。たまに慧太くんも帰ってきて、三人で浜辺でご飯を食べることもあった。
そんな生活を、お金が無くなるまで続けた。
帰ったら、両親は離婚することになっていて、あたしは、母に引き取られた。
そのごたごたで、無断旅行も対して怒られず、むしろトモは母に感謝されていた。
母は、最後までトモのことを「娘の頼れる彼」として好きでいてくれた。
「朋夜の葬式で会ったよね」
慧太君は、さらりとそう言うと、あたしの顔を見た。
返事に困った。
あたしは、あの日のことを断片的にしか覚えていないのだ。母と、トモのお母さんに抱えられるようにして出席した告別式。
泣いている、友達。のぼっていく、煙。桜の、花びら。
あの時、トモの遺影を持っていたのは慧太君だったような気もする。
慧太君は、そんなあたしを察してか、それ以上深くは聞かなかった。
「手、痛くない?」
彼は、あたしの左手に視線をやると、聞いた。
「ちょっと痛い」
あたしは、そう言うと少し笑った。
慧太君は、やっぱりトモに似てるなぁと思った。
何か嫌なことがあると、すぐ泣くあたしを、心配そうに見ていたトモの顔を思い出す。
慧太君は、トモに比べると、少し華奢だった。
そして、やっぱり、大人びていた。
トモも、あと三年たったら、今の慧太君のようになっていたんだろうか。
死んでしまった人は、生きていた時のままで変わらないのが悲しいなぁ。
トモが、あたしが、変わっていくのを一緒に見たかったのになぁと思った。
「慧太君が、ここに連れて来てくれたの?ごめんね。重かったでしょう?」
そう言うと、慧太君は、びっくりしたよ。と肩をすくめた。
「気が動転して、うちに連れて来ちゃったけど、やっぱり医者に行った方がよかったかな」
「気分は大丈夫?」と聞かれたので、あたしは一応「大丈夫」と答えた。
慧太君は、トモと同じ、優しい瞳をしていた。
「エリカちゃんちには、うちの親から連絡してもらったから、ここに好きなだけいていいよ。」
こんなことすると、朋夜が怒るかもしれないけど。と言って、慧太君は、あたしの頭に手を置き、
そっとなでた。
「エリカちゃん。大丈夫だよ。朋夜がいなくなって辛いけど、それを一人で抱え込むことは
ないんだよ。」
慧太君の手は、トモのよりもちょっと小さくて、その分、指が長かった。
あたしは、その暖かい手の温もりに、癒されている気がした。
「一緒に、ちょっとずつ歩き出せるようにがんばろうな」
そう言って、あたしを見てくれる慧太君の瞳が、トモとダブって見えて、あたしは、たまらなく
なった。
目から、熱い涙がこぼれた。
あたしは、慧太君の腕にしがみつくと、子供のように声を出して泣いた。
あたしの涙は、彼のシャツの袖にたくさんのしみを作った。
あの日以来、初めて大声で泣いた。
そして、あたしは、ちょっとだけ気が軽くなるのを感じたのだ。

その日の夜、慧太君と約束をした。
傷口を消毒してもらいながら、彼が言った。
「もう、手首切るのはやめよう」
あたしは、小さく頷いた。
消毒液が、しみて痛かった。 
ああ、あたし生きてるんだなぁ。と思った。
慧太君のベッドで、眠りにつくと、遠くに波の音が聞こえた。

 ここに居候することを決めたあたしは、これからのことを考えた。
時間はたくさんあった。
慧太君は、気を使って、あまり帰ってこない。ただ、電話だけは、まめにかけてくれた。
あたしが孤独にならないように。

トモの思い出を整理しようと思った。
心の中で整理する。あの人が生きていた証を残したいと思った。
一冊のノートを買ってきて、あたしと、トモの過ごした時間を思い出しながら、いろんなことを書いてみた。
最初のページを、書きながら思った。
あたしは、トモを心から愛してたんだなぁ。
出てくるのは、感謝のことばと、愛のことばだけだ。
この作業は、懐かしくて、悲しくて、いとおしくて、死ぬほど辛かった。
だけど、続けようと思った。続けたほうがいいような気がした。

 慧太君が、花火をしようと誘ってくれたのは、居候三日目のことだった。
二人で、近くのコンビニに行って、手持ち花火のセットと、お酒を買って海に行った。
けれど、まだ日が沈んでいなかったので、浜辺に座って、夜を待った。
あたしたちは、花火を両手に持ったり、振り回したりして楽しんだ。まるで子供みたいに。
最後に線香花火をした。あたしの花火は、大きな玉が火花を出す前に落ちてしまった。
慧太君が、不意に言った。
「そういえばあいつは、花火が異様に好きだったよね」
「うん」
あたしは、頷いた。
「今年は、二人で浴衣着て、花火大会に行こうねって言ってたんだ」
最後の花火に火を点けると、それは勢いよく燃えて、今度は大きな玉になった。
たくさんの火花が舞う。オレンジ色の光が綺麗だった。
そして、燃え尽きて、砂の上に落ちた。
「一人の人が、いなくなっちゃうっていうのは、悲しいことだね」
彼の言葉に、あたしは、もう一度頷いた。
そして、彼は呟くように言った。
「俺も、恋人が死んだんだ」

そう言ったまま、彼は何も言わなかった。あたしも、何も聞かなかった。
そして、花火を片付けて、彼は友達の家に、あたしは彼の家に帰った。
お風呂にお湯を溜めて入った。トモの絵を思い出して、少しだけ泣いた。
お風呂から出ると、携帯電話に、お母さんからの留守電が入っていた。
「無理するんじゃないわよ」という声が、とても優しかった。

その日は、朝から雨で、あたしはとても退屈していた。
例のノートは、少しずつだけど、増えていっていた。
書いてあるのは、ほとんど、トモへの手紙だった。
トモに会いたいです。そればかりだった。

慧太君が、「自由に読んでいいから」と言っていた本棚を、すみから見ていくことにした。
海洋学を勉強している人だけあって、海に関する本がたくさんあった。
あとは、ファッション雑誌と、文庫本が何冊か。クジラの生活を追った写真集もあった。
最後の段の端で、あたしの手が止まった。ビニール袋に包まれた、板のようなものがあった。
たくさんの本に囲まれて、それだけが異質な存在だった。 
人の物を、勝手に見ちゃいけないかなぁ、と思ったが、結局好奇心のほうが勝ってしまった。
おそるおそる、袋を開ける。
透明なビニール袋の中には、布に、丁寧に包まった何かが入っていた。
それを目にした瞬間、あたしはちょっと後悔した。
キャンバスだった。
小さな予感があった。
震える手で、かけられている布をめくる。
目の前に、鮮やかな色彩が映し出された。
そこには、エリカの花を手にして微笑む、あたしが描かれていた。
そして、その下のほうに、小さな文字で“I LOVE YOU”と書きなぐってあった。

「エリカってね、花の名前なんだよ」
そう得意気に言う、幼かったあたしと、それを興味無さそうに聞き流していたトモを、懐かしく思った。
両方の瞳から、涙が溢れ出して、止まらなかった。
あたしは、たまらず、そのキャンバスを抱きしめた。
ピンク色の、釣り鐘のようなエリカの花。
そこに、点々と、茶色が混じっているのに気づいたのは、そのすぐ後だった。
その茶色い染みは、よく見ると、血のようだった。
エリカの花にへばりついている、茶色い血。
キャンバスの後ろを見ると、トモが亡くなった日の日付が書かれていた。
それで、あたしは確信した。この絵は、最後までトモと一緒にいたんだ。
トモは、この絵をあたしに見せようと、来る途中で事故に遭ったんだ。
胸が、苦しかった。上手く息が出来ない。
あたしの涙は、止まることなく流れ続けた。
声にならない言葉が出てきた。
トモ、あたし、あなたに会いたいです。
会いたい。会いたい。会いたい。
その一心で、あたしは、思いきり深く手首を切った。何度も、何度も。
血が、吹き出して、手のひらを伝い、スカートにぼとぼとと染み込んでいく。
温かい血が、太腿を流れ、床に染みを作っていく。
あたしの意識は、そこで途切れた。
神様、もしも天国でトモに会えたら、もうずっと引き離さないで下さい。

ぼんやりした目を開けると、そこはいつものベッドで、側に慧太君がいた。
頭が、割れそうに痛かった。
「また、トモのところには行けなかったのね。」そう呟くと、「エリカちゃんは、死にたいの?」と、
彼が聞いた。あたしは、ぼんやりとした頭で答えた。
「わかんない。ただ、ここはいや。トモに会いたい。」 
 蛍光灯の明かりが眩しくて、目をつぶる。
慧太君が、低い声で呟いた。
「じゃあ、一緒に死のうか」
あたしは、何も答えなかった。ただ、小さく頷いた。
手当てがしてある傷口から、血が流れたような気がした。

しばらくして、彼は、たくさんの白い錠剤と、お酒の缶を持って、帰ってきた。
これをたくさん飲んだら、眠っているうちにトモのところへいけるかしら。
そう思って、あたしは錠剤に手を伸ばした。
たくさんたくさん飲んだ。
お酒で、流し込んで、たくさん飲んだ。
二人で、八瓶を空にした。
瓶にラベルが付いていなかったので、「なんの薬?」と聞くと、「睡眠薬」だと彼が答えた。
慧太君が、ベッドに入ってきて、二人で抱き合いながら、死が訪れるのを待った。
彼の身体は、温かくて、気持ちがよかった。 
そして、彼は、あたしの耳元で、小さな声で話し始めた。
悲しい、恋の物語だった。
ボランティア活動に行った水族館で知り合った女性と、恋に落ちたこと。
彼女には、家庭があったこと。
彼女が子供を連れて家を飛び出し、この部屋で少しの間、三人で暮らしたこと。
でも、その生活も長くは続かなかったこと。
「彼女は、毎日の生活にだんだん疲れていったんだ。」
それで、エリカちゃん、君が倒れていたあの海岸で。
彼は、辛い出来事を淡々と語った。
「僕らは、心中した。」
「今と同じように、薬を飲んで。目が覚めると、彼女はいなかった。取り残されたって思ったよ。」
そう言うと、彼は目を閉じた。
「彼女は、死んじゃったの?」あたしは、小さな声で聞いた。
目を閉じたまま、彼は答えた。
「うん。死に顔を見たよ。まるで夢を見てるみたいだった。」
辛かったんだろうな、と思った。取り残される辛さ。悲しみ。
痛いほど分かる。それで、死を選ぶ気持ちも。あたしは、わかる。
慧太君の身体に、自分の身体を押し当てる。
「慧太君」
彼の名前を呼ぶ。返事が無い。
あたしは、背筋が凍りついた。
また、取り残されるの?
トモが死んでしまった時の様に。
いなくなるの?大切な人が。
あたしの前から消えてしまうの?
あんな思いは、二度と嫌だった。
あんな悲しい思いは、絶対に嫌だった。
「慧太君」
もう一度呼びかけると、彼は、口を開いた。
「エリカちゃん、お願いがあるんだ。彼女の、子供に、代わりに謝っておいてくれないかな。
大人の勝手で、ずいぶんかわいそうなことをしちゃったから」
もう、目は開かないようだ。
最後まで自分を責め続ける彼を、気の毒に思ったけれど、それは、あたしには出来ない仕事だ。
だって、あたしも、もうすぐトモのところへ行くんだもの。
ごめんね、という気持ちを込めて、彼の手を、ぎゅっと強く握った。
彼は、その手を握り返すと、意外なことを言った。
「君が飲んだのは、ただのビタミン剤だよ。」
あたしは、自分の耳を疑った。何を言ったのか、最初は理解できなかった。
「エリカちゃん、あれ、いい絵でしょう。朋夜が死ぬ前に描いたんだよ。」
だけど、彼は、ろれつの回らなくなってきた口で、一語一語を、確かめるように言った。
「エリカちゃん、君には生きてて欲しいんだ」
あたしを抱きしめていた身体から、力が抜けるのがわかった。
それと同時に、かすかな寝息が聞こえた。
怖かった。
あたしは、ただ怖かった。
この、真っ暗な部屋も。遠くに聞こえる波の音も。
また、ひとりぼっちになることも。

 夏も終わりに近づいて、向日葵が重たい頭をもたげはじめた。
あの心中騒ぎから、一月ほど過ぎて、あたしは、懐かしい彼の部屋を久しぶりに訪れた。
彼は、あたしが呼んだ救急車で、一命をとり止めた。
だけど、死ねなかったことを後悔しているらしく、まだ入院したままだ。
病院で、彼が、彼女を失ってから精神を病んで通院していたこと。
あの薬は、処方されたものを溜めこんだものだということを知った。
彼が、胃の洗浄をし、眠り込んだのを見届けて、あたしは家に帰った。
家に帰り、母に全てを話すと、いつもは怒らない彼女にひっぱたかれた。
「みんな、あんたのこと心配してるんだから」
叩かれた頬の痛みを感じながら、あたしは思った。
ああ、慧太君が、あたしを生かしたように、彼女も、彼に生きてて欲しかったんだ。
涙が出た。そして、目が覚めたような気がする。
「ごめんね、お母さん。あたしは、生きる。」

彼の部屋で、自分の荷物をまとめる。あれ以来誰も入っていないらしく、床に、錠剤の瓶と、お酒の缶が転がっていた。
まとめて燃えないごみに出すことにした。
トモの、最後の作品は、あたしが貰うことになっていた。
あの絵を見たことを、病院で会ったトモのお母さんに告げると、お母さんは、小さく微笑んで言った。
「あの絵はね。いつかエリカちゃんが貰ってくれたらいいなって思ってたの」
だけど、エリカちゃんにとって、朋夜は忘れなきゃいけない人かなって思ったら、なかなか言い出せなくて。
と、お母さんは、悲しそうな顔で言った。
「忘れられていく者と、忘れなきゃ生きていけない者と、どっちがどれだけ辛いのかしらね。」
あの日、病院の窓ガラスに映った、彼女の横顔を、あたしは一生忘れないと思う。
また、あの湖の絵を見に行ってもいいですか?と聞くと、
お母さんは、いつもの笑顔で「いつでも来てね」と言ってくれた。
彼の絵を、丁寧に布で包んでいると、玄関のほうで、小さな物音が聞こえた。
何か配達されたのかと思って、郵便受けを開けると、一枚の画用紙が入っていた。
それを見て、慌ててドアを開けたけれど、もうそこには誰もいなかった。
あたしは、それを持って、部屋を飛び出した。
海へ一直線に下る坂を、駆け下りて、走った。

病室につくと、彼は、窓際のベッドの上に起き上がっていた。
そして、あたしを見つけると、ちょっと笑ってくれた。
半袖からのぞく腕は、切り傷の跡でいっぱいだった。
ああ、この人もあたしと一緒だったんだ。と思った。
あたしに言った言葉は、自分に言い聞かせてたんだ。
さっき届いた画用紙を、彼の手の上に乗せる。
彼は、それを無言で見ると、目に、たくさんの涙を浮かべた。
画用紙にクレヨンで描かれた、女の人と男の人。
小さな子が、がんばって描いたんだろう。そこには、「ママとだいすきなおにいちゃん」と、
大きく書かれていた。
そして、その横に大人の字で、「娘を愛してくださって、ありがとうございました。
あまり、自分をお責めにならないで下さい」という文章が綴ってあった。
なんていい手紙だろうと思った。
彼は、その手紙を、いとおしいものを抱きしめるように、胸の前で抱えた。
「エリカちゃん」
そして、言った。
「この世界は、残酷で、悲しくて、だけどなんて綺麗なんだろうね。」


あたしは、これからもずっと、トモと過ごした思い出を抱いて生きていくでしょう。
だけど、それは決して悲しいことではないのを、あたしは知ってる。
幸せに、なりたくて、なれなくて、もがきながらも。光があることを信じて。
あたしは、生きていけると思う。
あたしは、生きていこうと思う。
 

サクライハナカ [KIkzW-uAqPA-euoXQ-uYqrE] Mail 2001/04/18(水) 01:31:46
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