死から逃げつづける私と、世界の果てを模した壁と、その向こうにある図書館。

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「今までに積み重ねられた失敗と敗北とが告げている。この俺が特異な人間ではないと。
 俺はここまでの男だ。だが、お前は違う。お前はまだ行ける、高みを目指せる。
 だから行け。俺を見捨てて、早く行け」

秋山真琴 [KIkzW-Tpvab-ZRtub-VfhSb] HomePage 2003/08/25(月) 10:54:14

 コツン。


 何の音だろうか? 木製の扉を敲いた音、長靴でコンクリを踏み鳴らした音、分厚い本を綴じた音。どれも違うな、どうもしっくりこない。立ち込めた霧の中、ぼんやりと浮かんで見えているような、聞き覚えはあるのだけれど思いだせない。咽喉元まで出かかっているのに、吐き出せない言葉に似ている。分かっているのだけれど、分かれない。言いたいのだけれど、言えない。認識できているかいないかの、境界線を行ったり来たりしているような感覚だ。気持ち悪い。
 それにしても。私は一体、何をどうしていきなり。ここはどうだろうか。ああ、いけないな、錯乱しているようだ。考えようとしても何を考えればいいか分からなくて、思考があさっての方向に暴走してしまう。そうだな、ここは質疑応答、自問自答。まず、私という存在に関して考えようではないか。……ふむ、どうやら、夢を見始めるように、先ほどの音が鳴ってから私は思考を始めたようだ。言うなれば、音によって生じた自意識。むう、よく分からないな。けれど自分が分かっていないことは分かったわけで、これはこれで一つの進歩だ、無知の知。
 まあ、いいか。次に時空の問題。ここはドコで、そしてイツだろうか。ドコイツ? えっと、これもまた分からない。五感が働いていないのだろうか。目が見えていないから視界は真っ黒、鼻が効いていないから何も匂わない、そして自分の身体が本当にあるかどうか分からないのは、皮膚が空気や着物を感じていないからだろう。おお、これは考えてみると、ちょっと面白い感覚だぞ。本当は五体満足なのかもしれないのに、触覚が失われているがゆえに、自分が五体満足であると確信が持てず、魂だけが浮遊している状態と言われても信じてしまいそうな。これは中々、新鮮な感覚だ。素直に嬉しい。
 なんて。ぼやけたことを言っている場合じゃないな。ちょっとお気楽なことを考えてみたけれど、今は結構、逼迫した状況にあるのではないだろうか。自分が何者か分からなくて、ここがどこか分からなくて、今がいつか分からなくて。結構、……いや、かなりまずい状況にあると考えていいだろう。しかし、どうしたことだろう。まるで危機感がないし、困惑もしていない。焦りを感じているわけでもない。雰囲気としては、自然体。羊水に満たされた母親の胎内にいるかのような体感。まるで不安ではない。
 そんなことを考えていたら、再び、


 コツン。


 と聞こえ、気がついたら図書館にいた。
 私は――羊毛だろうか――ちょっと繊維の粗いケープのようなものを着ていた。髪は黒で、肩甲骨の辺りまである。手足は細くて白い、それから……ケープの襟の部分を引っ張って胸を確認したが、性別は女、だと思われる。
 爪や毛はしっかりと手入れされているようで、不潔な感じはしない。肌も滑らかだし艶もあるし、髪もサラサラ。RPGで言うならいきなりレベル99、私はかなり満足の行く身体を手に入れた。チャラチャラーン。
 自分の観察が終わったところで、次は周囲の確認と行こう。先ほどは図書館と言ったが、どうやら語弊があるようだ。確かに、私が立っている場所の両脇には、本棚があることにはあるが、ちょっとここまで高くて、長い本棚を私は知らない。前を見て、後ろも振り向いたが、遠くの方は闇に閉ざされていて、本棚は果てしなく続いているように見える。これでは図書館というより廊下である。いや、大局的に見るか、鳥瞰すれば、やっぱり図書館と思うかもしれないし、或いは迷路と思うかもしれないが、ちっぽけで矮小な自分の視点では、これは廊下以外の何物でもない。
 なんとなく好奇心に駆られ、本棚から本を一冊、抜き取ってみる。カバーは濃い緑色で固かった。爪で叩けば、コンコンと音がする。俗に言うハードカバーという物だが、最近の書店で売っているような物ではなく、古書店で見かけるような古くさい固さだ。背表紙を左手で抱え、右手で表紙を捲る。ふむ、白紙だ。扉を捲る。あれ、白紙だ。捲る、頁を捲り、本の腹を切る。けれど、白紙。いつまでも白紙である。パラパラパラ……ああ、白紙白紙白紙、このやろう全部白紙じゃないか、騙したな。
 パタンと本を閉じ、本棚に戻す。そのまま、その隣の本を取り出し捲ってみたが、やはりこれもオール白紙であった。なんとなく嫌な予感。私は振り返り、反対側の本棚から適当に一冊抜き取り、捲ってみる。ああ、もう言わなくても分かるでしょう。白紙です、白紙でした。題名はなく、著者名もなく、本文もない。あの本もその本も、どの本も白紙なのです。なんということでしょうか、ここは白紙図書館ですか? 外装だけを整えた、中身のないチンケな図書館ですか?
 いやいや、周囲を見回してもう一度考えるんだ私。ここはやっぱり廊下だったのだ。この両脇に立ち並ぶ本棚と、意味のない蔵書は、家主の趣味なのだ。きっとそうだ、そうなのだ、そうに違いない。ふふふ、分かりました、分かりましたよ。犯人、分かっちゃいました。これ、夢ですね! 夢! 私、寝てるんです、今。ベッドで夢を見てるんです、図書館……と言うか、廊下の夢を!
 ほら、もう起きて私! 夢が夢だって気付いたら、好きなタイミングで起きれるんでしょう! 明晰夢って言うの? 認識できているがゆえにコントロールできる、自分勝手な夢。素敵な男性と恋仲になるのも、宝くじで一攫千金当てるのも、大学受験で主席合格するのも、今すぐ起きるのも全部アリ! だから、ほら! 起きなさい! 起きて! 起きてください! お願いですから、もう目覚めてください! 勘弁してください、こんな訳の分からない夢。もう充分ですから、面白かったですから、楽しみましたから、もう起こしてください! ねえ、ねえ! 聞こえてるの!!


 コツン。


「君は……」
 人の声がしたので振り返ってみると、白い肌をした女の人が立っていた。銀色の切り揃えられた髪に、鋭く細い目。肌の色と同じワンピースを着た、白皙の麗人が私を見て驚いていた。
「あ、どうも。こんにちは」
「……こ、こんにちは?」
 へこへこと挨拶した私をどう扱おうか困っているのか、その人は語尾を上げつつも挨拶に応じてくれた。しかし、それにしても美しい人だ。美人であることなんて当たり前で、自分を磨くのなんかどうでもよくて、そんなことよりどう振る舞おうか悩んでいるような感じだ。何をやっても絵になるような美貌なのに、何を羨ましい悩みを持ってるんだこの人は。……いや、私の妄想だけどさ。
「貴女、名前は?」
「分かりません」
 私は即答する。少しは考える素振りを見せても良かったかもしれないが、どうせ思いだせない。何故か分からないけれど、私の中に思いだせないという静かな確信があった。だから、名前を問う質問に、瞬間的に答えるのが、私のせめてものアイデンティティだ。名前を持たない私は、名前を持っていないことを私の特徴にしなければならない。
「何処から、来たの?」
「分かりません」
 私は即答する。これも先ほどと同種の質問だ。何処から来たのか分からないというのは、自分の本性や本質、両親がどういった存在であるか、先祖に偉い人はいるのかが分からない。つまりルーツがないということだ。ルーツは誰でも持っている。孤児でも自分の髪・瞳・肌の色から自分の人種や国籍を類推できる。が、私はそれさえもできない。出所を持たない私は、出所を持っていないことを私の特徴にしなければならない。
「ひょっとして……記憶喪失?」
「はい」
 私は即答する。けど、これに理由はない。敢えて言うなら、今まで即答してきたのだから、即答してみた、ぐらい。……しかし、かつて本当に記憶喪失になった人で、私ぐらい早く正しく自信を持って「記憶喪失である」と断言した人はいないだろう。はっはっはっ。
「そう……それじゃあ、私についてきて。歩きながら、話す」
「はい」
 スタスタと歩きはじめたその人の後を追う。スタスタ、パタパタ、スタパタスタパタ。その人はスニーカーみたいのを履いていたけれど、私は裸足だからパタパタ。
「私の名前は、セカンドホワイト――白の二。万物に注ぐ恵みの雨、フィロォ=ソファイアに仕える、蒼と白の心が分身の二つ目です。そして、ここは神涙図書館。第一世代から第八世代の全て――文字通り、全て――が収められており、ここから何冊かの書物が第九世代に持ち出されて行きます」
 その人――セカンドホワイトさんは突然立ち止まると、脇の本棚から無造作に一冊抜き出した。すると、反対側の本棚がガタッと揺れ、横にスライドした。本を抜くと、道が現れる。面白い仕掛け……やっぱりここは迷路だ。マトリクス、ラビリンス、ライブラリ。
「館長は九々海同盟の盟主でもあられる朱砂王ですが、管理は我々、司書に任されています」
「司書?」
「ええ、書を司る者。ここ、神涙図書館において書とは、阿吽であり、意志であり、宇宙であり、永遠であり、恩愛であり、過去であり、機会であり、苦悩であり、化生であり、恋人であり、些事であり、恣意であり、寸暇であり、世界であり、想像であり、旅先であり、血潮であり、積木であり、天上であり、賭場であり、名前であり、人間であり、主柄であり、寝床であり、長閑であり、煩瑣であり、暇人であり、不満であり、兵士であり、方法であり、漫才であり、未来であり、無謀であり、面倒であり、問答であり、闇雲であり、由来であり、遥遠であり、螺旋であり、林檎であり、流転であり、恋歌であり、論外であり、歪曲であり、乎古止点であり、司書とは、書を司る者です」
「そ、そうなんですか……」
 わけわからねえよ。
「さて」
「……なんでしょう?」
「分かりました」
「な、何がです?」
「貴女がです」
「……はあ?」
「つまり。貴女が何者で、どうしてここにいるのかが分かったといったのです」
「え? どうやって?」
「ああ、それは」
 そこで私を先導していたセカンドホワイトさんは振り返ると、こちらに笑顔を向けてきた。可愛いとか美しいとかではない、完璧さを感じるモデルの笑顔だった。もしカメラを持っていたら、思わず一枚撮ってしまいたくなるような。ええと、何て言うんだっけな。そう、シャッターチャンスという奴。それが今、この笑顔。素敵。
「先ほども申しました通り、私は蒼と白の心の分身のひとりです。蒼と白の心は、私の他に五人のブルーと四人のホワイトを持っています。そして私の経験は、他九人の経験であり、蒼と白の心の経験であるのです。ですから、私が持っている貴女に関する知識は、私の物であるのと同時に九人のブルーとホワイトと蒼と白の心の知識でもあるのです。そして、今この私は、貴女を導いてしかいませんが、他九人の蒼と白と、蒼と白の心は、今まで貴女が何者であるかを調べていたのです」
「はあ……」
 よく分からないが、なんとなく分かったことがある。それは、セカンドホワイトさんがこんなにも冷静で、自分の時間を削ってまで私の相手をしてくれるのは、他にもセカンドホワイトさんと同じような人が九人もいるからだからだろう。頼れる人間がいるから、頼ることができる。自分の代わりが務まる人間がいるから、自分を全うする必要がない。これはきっととても小さな、代用の効く社会、組織的なコミュニティなのだろう。
 なんてね。私は何を考えているのだろう。
「それで。あの、変な質問ですが……私は何者なんです?」
「端的に云えば“死から逃げつづけている存在”、それが貴女です」
「死から、逃げている」
「違います。死から逃げ“つづけている”存在、です」
「……?」
「死とは瞬間的な物ではありません。ある一定のエリアに入ってしまえば、そのエリアから逃げ出さない限り永続的に死につづけるのです。これが貴女の場合、死のエリアに入っているのにも関わらず、死なずに、生きつづけている。貴女は現在進行系で、死から逃げているのです」
「へぇ」
 セカンドホワイトさんは少しだけ眉を顰めた。顰めた……のだが、これがまたシャッターチャンス。怒った顔も可愛いと言う誉め言葉があるが、セカンドホワイトさんの場合、顔を顰めていても顔が整っている。理屈じゃなくて、矛盾を美麗と完璧さで踏み倒す人だ。
「神涙図書館に終わりはありません。いえ、正確に言えば、あらゆるものに終わりはありません。一度始まってしまうと、何もかもけして終わらないのです。人生も戦争も世界も、一度始まれば、それは終わることなく永劫に続くのです。そしてこの神涙図書館の場合、それが顕著なのです。そして貴女がここに居残る限り、貴女は永久に死から逃げつづけることができるでしょう。ここに残ることさえできれば」
「……どういうこと、ここに残るのって何か資格が必要なの?」
「いえ。神涙図書館に書物以外の存在が入り込んできたのは貴女が初めてですが、蒼と白の心は貴女を安全な存在であると認め、貴女がここに永久に存在することを許可しました。ですから、神涙図書館にいる者やある物が、貴女を排除しようとしたり、邪魔者扱いすることはありません。しかし……」
 セカンドホワイトさんは少しだけ言い及んだ。
「しかし、終わりのない神涙図書館には、始まりもまたありません。永続的に現在が持続するのです。変化もなければ、刺激もありません。今まで無常の世界に住んでいた貴女が、この変化のない世界に堪えられるとは……失礼を承知で申しあげますが、思えません。なお、瞬間的にでも元の世界に戻りたいと思えば、戻れるのでご承知ください」
「……そう…………」
 確かに言われてみれば、その通りだ。先ほどからセカンドホワイトさんはたまに本を抜き取って、新たな通路を作ってはいるけれど、いつまで経っても目的地につくようには見えないし。セカンドホワイトさん以外にいる九人や、分身たちの大本である蒼と白の心という人もいる気配がない。
 今の私の世界には、私と本とセカンドホワイトさんしかいないのだ。セカンドホワイトさんは綺麗だから、見ていて飽きないけれど、いつまでもこのままだと宣告されてしまうと辛いものを感じる。
 それにどうやら私は、死から逃げているらしいし……死から逃げているということは、本来は死なないといけない私が、なんらかの理由でそれから逃げて、しかも成功してしまっているということだ。それはいいことなのだろうか。私が死から逃げるということで、誰か迷惑を負ってはいないのだろうか。少し気になった私は、そのことに関してセカンドホワイトさんに尋ねてみた。すると彼女は、流暢な口ぶりでこう答えた、
「それは分かりません。死ぬことが迷惑となるのは、基本的には当人にだけです。志半ば、とはよく言ったものですね。……例外としては、貴女の死を求めている人がいるとすれば、ですね。遺産や保険金目当てなどでしょうか。外の世界のことは、よく分かりませんが」
「ふうん」
 それを聞いて、私は安心した。何故だろうか、誰にも迷惑が掛かっていないことが分かったことが、どうして私に安堵を与えるのだろう。よく、分からない。……可能性としては、死に付きまとう責任のようなものだろうか。死んでしまう責任、死ななくてはならない責任、死から逃げつづけている責任。ひょっとしたら……ひょっとしたら、ひょっとしたらだけど。私は死んだほうがいいのかもしれない。
 そう思った瞬間。
 また聞こえた。
 何処かからか聞こえた。
 木製の扉を敲いた音、長靴でコンクリを踏み鳴らした音、分厚い本を綴じた音とも違う。


 コツン。


 という音を。


 コツン。


 連続して、何回も。


 コツン。


 何度も何度も。


 コツン。


 聞いた。


 コツン。


「……い、っ」
 冷たい風が吹いていた。木々が揺れて、梢がカサカサと音を立てていた。風の音が、亡者の嘆き声のように聞こえた。つ、痛っ。何だかよく分からないけれど、頭が痛い。後、お腹も、胸も、足も、手も、……と言うか全身が痛かった。キリキリ言ってて、痛い。目は閉じている、勿論痛いから閉じている、開けると痛みが倍増しそうだから閉じている、だけど開けてみた。辺りを見回すために、痛いのを我慢して開けてみた。
 壁があった。漆黒のつるりとした壁。世界の果てを模した壁があった。
 男がいた。苦悶の表情を浮かべ、目を見開いたまま、男は倒れていた。死んでいた。
 風が吹いていた。生きとし生けるものの生きる権利を剥奪する、滅びの風が吹いていた。
 風は倒れている私にも吹き付けている。男はきっと風に吹かれて死んだのだ。そして宙に見える、ボロボロの月も、枯れて中がスカスカになった木も、風に吹かれて死んだのだ。誰も彼もが死ぬ、滅びの風に、私もまた吹き付けられていた。
 どうして。と、思う。
「今までに積み重ねられた失敗と敗北とが告げている。この俺が特異な人間ではないと。
 俺はここまでの男だ。だが、お前は違う。お前はまだ行ける、高みを目指せる。
 だから行け。俺を見捨てて、早く行け」
 もう死んだ男の言葉が蘇る。私は世界の果てを模した壁を打ち破り、その向こう――神涙図書館という場所に、逃げたはずではなかったのか。絶対死から逃亡し、それに成功したのではなかったのか。それが、何故。何故、戻ってきてしまったのだろうか。どうして?
 分からなくて、分からなくて、分からないままに、私は死んだ。最後に手を伸ばして、死んだ男の細くなった手を握り、一緒になった気分になり、死んだ。私が死んだ後も滅びの風は吹きつづけ、やがて私も男も風化し、骨だけになって、骨も砕け散って、土に還った。けれど、それは私が死んだ後のこと。死んだ私は、私が死んだ後、どうなったかを知らない。


 誰も死から逃げられない。一時的に逃げることはできるし、永続的に逃げつづけることもできる。けれど、人は死ぬから人なんだ、死ぬことに責任を感じてるし、死に憧れていたりもする。元気に生まれて、充分に生きて、格好よく死ぬ。それが人間なんだ。それは呪縛なんだ、人が人であるための。
 ああ! 上手くすれば、一生生きれたのに! 何で戻ってきたのよ、私! ああもう!




 男の指先が、世界の果てを模した壁に当たっている。
 左手の薬指に光る、銀色の指輪。
 風が吹くたびに、指輪が壁にぶつかり、コツンコツンと音を立てている。

秋山真琴 [KIkzW-Tpvab-ZRtub-VfhSb] HomePage 2003/08/25(月) 10:55:55
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