彼女が呼んでいる

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 本来、見慣れた街、見慣れた道であるその場所も、日が沈み、暗くなった後だとまるで別世界のごとき様相をなす。
 立体感に乏しい、黒い紙を切り貼りして作られたような影の市街。
 道に沿って立っている街灯は、故障しているのか暗いし、天上にはただのひとつの星も見えない。
 だと言うのに、ぼくが今いるこの場所が完全な暗闇でないのは、

――ここがぼくの夢の中だからだろう。

秋山真琴 [KIkzW-dtfKr-ZTbkz-djTyd] HomePage 2004/02/26(木) 10:07:21

 目が覚めた瞬間。
 あるいは眠りに落ちた瞬間。その瞬間からぼくの逃走、そして彼女の接近は始まる。
 まず、最初にやるべきことは地面に耳を押し当て、彼女がどこから迫ってくるかを確認することだ。最初の頃、ぼくはこの夜の街に放りだされ、途方に暮れたまま彼女と遭遇してしまい、そしてその度に、強烈な痛みと共に夢の世界から投げ出されるはめにあっていた。それがただの悪夢でないことと、待っているだけでは終わらないということは経験から知った。心理カウンセラにも診てもらったが、彼らは小難しい顔をして「君は疲れているようだね」と物知り顔で言うだけだった。彼らは知らないのだ。ぼくが毎晩、繰りひろげているこの逃走劇を。必死になって彼女から逃げ、夢の世界において生き延びようとしている孤独な戦いを。
 捉えた! 彼女の足音だ!
 ぼくは駆けだす。自分の足音に彼女の気配が掻き消されてしまうけれど、そんなことは些細な問題。今、重要なのは少しでも彼女と距離を取ること、それだけだ。
 煉瓦が敷きつめられた街道をひた走る。この道は作られてから相当の年月が経っていて、地盤がゆるんでいるのか、たまに踏んづけた煉瓦が沈むことがある。それは天然の罠のようなものだ。足許が不安定になり、バランスが崩される。場合によっては、足を突っかけて転んでしまうこともある。時間は限られている。些細なタイムロスも許されない。ぼくは一刻も早く、少しでも遠く、彼女から逃げなければならないのだ。
 ぼくの足が、軽快なリズム音を奏でる。ぼくの足が下ろされた煉瓦はすべてしっかりと固定されていて、ぼくはそこを全力で駆け抜けることができた。――そう、ぼくは知っている、この道を。どの煉瓦が不安定なのか、どの煉瓦が踏んではいけないものなのか。ぼくは知っている、彼女から逃げつづけたぼくの経験と勘が、ぼくを罠から遠ざけてくれる。
 角を折れ、目の前に展開する階段を駆け上がる。ここでは四つん這いになる。連日の逃走劇からすっかり強化されたぼくの逃げ足であっても、もうそろそろ限界が訪れる。尻の後ろの筋肉が痛みを訴え、少しでも足を上げようとすると激痛が走るのだ。そうなってしまうともう全力で走るのは無理になる。だから階段を上るときは速度が落ちることを承知で、両腕をも駆使する。そう、このように。
 四肢を突きたてて階段を上る。顔は基本的に下を向いているから、視界に入るのは流れてゆく階段の表面のみだ。ときおり方向修正のために顔を上げる。逃げるのに手間取っていたときに一度、顔を上げたところで彼女に蹴られたという痛い思い出がある。しかし今は大丈夫。彼女はまだぼくが目覚めた地点にも来ていないだろう。この調子で行けば、ぼくが階段を上りおえる頃にようやく、彼女は煉瓦の不安定な街道に差しかかるはずだ。
 考え事をしてなるべく身体の負担を気にしないようにしていたが、さすがにもう限界だった。階段を上りおえると同時にぼくは倒れこんだ。痙攣する手足をそのままに、ぼくは耳を地面に当てて、彼女の足音を探る。
 よし、計算通り。地面を踏み鳴らして、踊るように走る彼女の足音がはっきりと聞こえる。彼女はまだ街道を走っている途中だ。もうあと、そう、三十秒ほど小休止を取ってから、この先の公園に向かおう。どうしてかは判らないけれど、その公園には包丁が落ちているのだ。誰かの落し物か、それともぼくのために用意されてあるのか。どちらにせよ、彼女に対抗するには武器が必要で、公園にある包丁はぼくがこの影の街で見つけたたったひとつの武器なのだ。
……、…………ハッ! しまった、疲れに身を任せ、ゆっくりしすぎてしまった。
 急いで立ちあがるのとほぼ同時に、階段を跳ねるようにして上ってくる彼女の影が、ぼくの足許をよぎった。
 近い。
 それに素早い。
 彼女の動きは軽やかで、疲れを微塵もにおわせない。いや、隠しているわけではない、事実、彼女はまるで疲れないのだ。ぼくが逃げるのに全身を痛めているというのに、彼女は身体が疲労する生命現象から解き放たれているように……いけない、こんなことを考えている場合ではない。早く、早く逃げなければ。
 ぼくは公園に向かって、つまり三叉路を右手に折れようとした。
 しかし、その一歩を踏みだした瞬間、背後でスタッと軽い音がした。
 動きが止まる。
 じわりとこめかみに汗がにじむのが判る。
 逃げなくてはならない、あるいは戦わなくてはならない。
 そうと判っているのに、ぼくの身体はまるで使い物にならない。
 恐怖で動かないのではない。彼女を前にすると自然と動けなくなってしまうのだ。
「――、――――」
 彼女が何か言った。
 何か言ったということは判ったが、具体的に何を言ったか、何を伝えたかったは判らない。言葉としても音としても、捉えることができない。
 結局。
 ぼくは振り返ることもできず、背中に一撃を受けた。
 それは彼女が持っている小振りで、使い勝手のよさそうな短刀だ。
 彼女はいつもそれでぼくを刺す。
 今日のぼくは、彼女に背を向けたまま動けなくされてしまったから、彼女がどのような貌をしているのかは判らない。もっとも、面と向かっていても、彼女の顔はどうしてか見えないのだけれど。まるでそこだけ霧が、彼女のを、あ、血が、意識が、途、切れ――。


    /


「うわあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああぁぁぁぁぁぁああぁっっ」
 ゴン! と二段ベッドの上の段だと言うのに、咄嗟に起きあがろうとしたぼくは、天井に頭を強打した。痛い。
「うう、今日もまたあの夢か……」
 打ってしまったところを擦りながら、蒲団の中に戻る。
 はたして毛布と呼んでいいのか判らないぐらいに薄っぺらく、防寒機能に決定的に劣っている蒲団だけれど、今までぼくが眠っていたこともあり人肌には温もっている。
 寝汗をかいてしまったぼくは、あらかじめ枕元に用意しておいたタオルで首筋や胸などを拭いてから、改めて蒲団で身体を包む。汗が引いてゆき、寒気がするのだ。それはきっと彼女に感じる恐怖から来る寒気でもあるのだろう。この寒気だけは、夢が醒めても現実に残る。夢の中で感じる虚ろな痛みではなく、現実にぼくを侵す静かな寒気。
 蒲団の外の空気は冷たい。春先は近いが、ぼくが居候しているこの家は隙間風が吹きあれ、お世辞にも住み心地がいいとは言えない。それでも、その日暮らしのぼくに文句は言えず、まあ、この家に住んでいるたったふたりの住人にして、この家の主人は見た目だけは可愛い女の子だから面と向かって文句を言うことなんてできやしないけれど。
 さて。震えが収まるのを見計らって、ベッドを出る。ベッドの上段と床をつなぐハシゴはないので、へりに手を掛けて飛びおりるしかない。
「よっと」
 暖かい空気は軽く、天井付近に留まるためか、床はひんやりと冷えていた。ぼくはすかさず、スリッパを引っ掛け、洋服をぶらさげている下段から今日着る服を引っ張りだした。ゴミ置き場から拾ってきたこの二段ベッドは、下段が完膚なきまでに破壊されていて、底が抜けている。そこは、クローゼット代わりに洋服をぶらさげるにはぴったりの空間で、個人的にはとても気に入っている。
 着替え終わったところで、バタンと部屋のドアが予告なしに開いた。
 そこに立っているのは、この家の主人にして、ぼくの従妹。霧崎歌凛ちゃんだ。名前に凛とつく女性は、総じて男勝りで勝ち気である――というのは、ぼくの定説だけれど、歌凛ちゃんもそのご多分に漏れず、ぼくの方が年上であるにも関わらず居候と主人という関係を重視して、いつも偉そうな態度を取っている。
「おはよ、夜辺。顔洗ったら朝ご飯食べなさい」
 歌凛ちゃんはぶっきらぼうに言うと、ぼくの返事を待たずに去っていった。ドアを開けっ放しにしたまま。
 幸い、着替えは済んでいたので、ぼくは歌凛ちゃんの後を追うようにして部屋を出ることにする。後ろ手にドアを閉めて、いい匂いの漂ってくる食堂の隣を通って洗面台へ。
 ついでに用も足してぼくが食堂に入るころには、歌凛ちゃんはテレビを見ながら朝食を食べはじめていた。
「おはよう、歌凛ちゃん。昨日はよく眠れた?」
「む」
 軽い挨拶のつもりで声を掛けたのだけれど、何が逆鱗に触れたのか、歌凛ちゃんはテレビから目を放すと、ぼくを睨んできた。
「よく眠れたですって。あんたね、明け方が近づくと寝返りがうるさいし、寝声もうるさいって前も言ったでしょう。私の朝は、あんたのせいでいつも最悪なのっ」
「あ、それは――ごめん」
「ごめんで済めば警察はいらないわよ!」
 頬を膨らませると、歌凛ちゃんは一気にご飯を掻きこむと「ごちそうさまっ」と言い放つと、スカートを翻して席を立った。高校生の彼女は、無職のぼくとは違って朝から忙しい。学校の先生にばれない程度に化粧をしてから、家を出るのだ。ドタバタと食堂を出ていった彼女の背中が壁に隠れて見えなくなるまで追ってから、ぼくは静かに「いただきます」と言った。
 テーブルの上には、ご飯、梅干、海苔、そして歌凛ちゃんが作った卵焼きだ。卵焼きは大半が歌凛ちゃんによって蹂躙され、ぼくのために残されているのは僅かだけれど。
 何とはなしにテレビを見ながら食事をしていると、制服をプリチーに着こなした歌凛ちゃんが食堂に顔を出した。
「もう行くの? いってらっしゃい」
「ねえ、夜辺」
「なに」
「あんたさあ、やっぱりバイトか何かした方がいいよ」
「あー。うん、そうだね」
「この話、昨日もしたの覚えてる?」
「覚えてるよ」
「昨日一日、あんた何やった」
「歌凛ちゃんのお父さんの書斎で、本を読んだよ」
「バイト探す気あるの?」
 実はないんだ……なんて言う訳にはいかず、
「勿論。あるに決まってるよ」
 一応、そう言っておいた。
「じゃあ、さ。今日、私が帰ってくるまでに情報誌と履歴書を手に入れること。やる気見せないと追い出すよ」
「う……」
「んじゃ」
「…………いって、らっしゃい」
 玄関の閉まる音が聞こえるのを待って、ぼくは溜息をついた。
 確かに傍から見てぼくの生活態度は問題あるだろう。伯父さんが仕事に成功していて、ぼくひとりを一生養えるぐらいの財力はあるけれど、それは不慮の事故で両親を――伯父さんにとっては弟とその妻――亡くしたぼくへの親切心があってこそのもの。街で毎日、遊んでいる若者だって口先では「俺は将来、ビッグになる」と言っているのに、ぼくはそれを言うことすらしない。
 問題、あるだろうなあ。
 食べ終えた食器を持って台所に向かう。そこには歌凛ちゃんのお茶碗も置いてある。朝食は彼女が作って、片付けるのぼくという役割り分担だ。
 バシャバシャと水道代を気にすることもなく食器を洗いながら考える。
 やっぱり歌凛ちゃんにして見れば、怠惰にパラサイトして暮らしているぼくの態度はむかつくんだろうなあ。バイトの話は今日昨日だけでなく、随分、前から言ってるし……あれ? もしぼくがバイトを始めたら、ひょっとしたら彼女、ぼくを見る目が変わるかもしれない。そうなったら歌凛ちゃんの性格の悪さも少しは緩和され。それはとても小さいものだけれど、伯父さんへの恩返しに繋がるかもしれない。
 やってみようかな。バイト。


    /


 食器を洗い終えたぼくは、スプリングコートを羽織って家を出た。
 まずは情報誌と履歴書を買わないといけないのだけれど、それらは幾らぐらいするもので、どこに売っているのだろう。財布には二千円ほど入っているけれど、それで買えるだろうか。恐らくそういった知識の不足も、ぼくが引きこもっていなければ持っているものなのかもしれない。
 ポケットに手をつっこみ、駅へと道を歩きながらぼくは多くなっていく店の軒先に目を向ける。情報誌と言うぐらいだから、やはり探すとしたら本屋だろう。しかし履歴書はどこに売っているのだろう。履歴書という文字だけを見れば書という字から、情報誌と同じく本屋が連想されるけれど……なんか違うような感じがする。そもそも情報が載っている情報誌と異なり、履歴書は自分の情報を書き込むためのものだ。だとすれば、それはノートに近い。そしてノートが売っているのは文房具屋。
 この近くに文房具やなんてあったかなあ……、
 と、周囲を見渡したぼくの視界に、コンビニが入った。
「ああ、コンビニなら何でもありそうだ」
 自動ドアをくぐり、棚の間を歩いてみると思ったとおり、情報誌も履歴書もあった。なんだ、コンビニにあるんだったら家に近いほうに行けば良かった。
 値段を確認してみれば、どちらも安価で、千円でお釣りが来た。
 環境にやさしいとプリントされたビニール袋をぶらさげて、コンビニを出る。とりあえず、これで最初の一歩は踏みだした。あとは、情報誌を見て、ぼくに合いそうな職場が見つかったら履歴書を持っていけばいい。バイトを始めたら、歌凛ちゃんが怒ることも少なくなるだろうか。そうなれば嬉しい。
 ぼくは意気揚々と帰途についた。


    /


 家に戻ったぼくは早速、テーブルの上に情報誌を広げて、記載されている情報に目を通し始めた。仕事内容、勤務時間、休日、給与、待遇、資格、応募方法、研修の有無。住所を見ると意外と近くにあったりして、歩いて通える距離のものも幾つかあった。とりあえず通える範囲にあるものと、特別な資格が必要でないものに赤ペンでマークを入れていく。
 ドサッ。
 何かが落ちる音が聞こえたので、顔を上げると手にしていた鞄を落とした歌凛ちゃんが立っていた。
 壁に掛けてある柱時計に目を走らせると、いつの間にか彼女が帰宅しても不思議じゃない時刻になっている。どうやら作業に集中しすぎてお昼を忘れたらしい。
「おかえり、歌凛ちゃん。どうしたの驚いてるみたいだけど」
「……驚いたわよ、まったく。まさか夜辺、あんたが本当に情報誌を手に入れるなんて。しかも、なにこれ」言いながら歌凛ちゃんはツカツカと近寄ると、ぼくの手から情報誌を奪い去った。「あんた、まさかわざわざ金出して買ったの?」
「うん、そうだけの」
「馬鹿ね。こういうのは普通、無料のものを貰ってくるのよ」
「え、ただでくれるの?」
「無料のもあれば、有料のもあるの。まあ、どちらにせよ手に入れたのならいいわ。……って、あんた。産婦人科の受付とか、歯科助手とか本気? 仕事は選びなさいよ」
「だって、近いから」
「ああ、本当。どこかで聞いた名前だと思えば、そこの通りにある歯医者じゃない。……だからそういう問題じゃなくてねえ、あんたにできそうな仕事を選ぶのよ」
「ぼくに、できそうな……」
「そうよ」
 歌凛ちゃんはテーブルの上に情報誌を叩きつけると、椅子を引いて腰かけた。そしてグイと顔をぼくに近づけて、情報誌の一箇所を指で示した。
「例えばこれ。漫画喫茶なんてどうよ。無愛想なあんたにはぴったりじゃない」
「駄目だよ。これは少し遠いよ」
「だから、そういう問題じゃなくて! 別に漫画喫茶じゃなくてもいいのよ。あんたができそうな仕事を選ぶの。少し遠くてもいいから、愛想のないあんたを雇ってくれそうなとこを探すんじゃない」
「……ああ」
 今まで漠然と、履歴書を出せばどこでも働かせてくれるものだと思っていた。でもよく考えたら、履歴書で雇うかどうか決めるのだし、面接を課しているところもある。
「わかった?」
「うん」
「それじゃあ……」歌凛ちゃんは顔を上ると、自分の格好を見下ろした。「やだ、わたしまだ制服じゃない。着替えてくるから、あんたは真面目に探すのよ。わかった?」
「うん」
 ドタバタと食堂を出ようとした歌凛ちゃんは、入口のところに落としっぱなしになっていた鞄につまづいて、引っくり返りそうになった。体勢を立てなおした後、彼女は振り返ったがぼくはそしらぬ顔で、ずっと情報誌を見ていたふりをした。


    /


 結局、近所のコンビニで働くことになった。
 コンビニと言ってもそこは少し前まで酒屋だったところで、不況の波にあおられ、コンビニのチェーン店に組み込まれたもののひとつだった。店長のおじさんと、パートのおばさんだけがいて、若手のぼくは喜んで迎えいれられた。
 バイト先の決まったことは、すぐに歌凛ちゃんによって今はヨーロッパにいるらしい伯父さんに伝えられた。伯父さんはぼくの行動を、社会復帰へと踏み出した最初の一歩と捉えたらしく、数日後、家に伯父さんからワインが届いた。一緒に届いた手紙を読んでいる間、歌凛ちゃんは何処かからかチーズを持ってくると、慣れた手つきでワインの栓を抜き、それをグラスに注いだ。結局、ワインの大半はお酒に弱いぼくではなく、未成年の歌凛ちゃんのお腹の中に収まった。
 コンビニでのバイトは、たまに迷惑なお客さんが来ることを除けば、おおむね楽しかった。顔見知りのお客さんも何人かでき、気軽に話し掛けてくれる人もいた。また、ぼくがバイトを始めてから万引きの件数が少なくなったらしく、店長はとても喜んでいた。
 歌凛ちゃんも怒鳴ることが少なくなり、彼女とぼくの関係は以前よりもずっと友好的で親愛的なものになった。彼女と仲良くなることは、当初の目的であったから、この変化はぼくにとっても嬉しいものだ。また、彼女は家に女の子の友達をつれてくるようになり、ときにはぼくも彼女たちの会話の輪の中に入ったりした。
 そう、バイトを始めたことは、ぼくにとってとても良い意味での転機になったのだ。今にして思えば、どうしてもっと早くバイトを始めていなかったのか、不思議に思うぐらいに。すべての変化はいい方に向かっている。以前のように一日中、家に篭もって考え事にふけることもなくなったし、気が滅入って何もかもが嫌になってしまうこともなくなった。
 そして。
 あの夢も変わった。
 黒衣の女性に追いかけられ、短刀で刺されるあの悪夢も。


    /


 かつて。
 ぼくはいつの間にか、この黒い紙を切り貼りして作られたような影の市街にやってきていて、気がついたらそこにいた、という状況に放りだされていた。それは、椅子に座ったままぼーっとしていて、気がついたら夕暮れになっていたというような感覚に近く、ぼくは気がついたらその夜の街に来ていたのだ。
 それが今では、かなり意識的にぼくがその街の中に至る経緯が判るようになっていた。
 以前、ぼくはその街を、ごく見慣れたぼくが住む街だと思っていた。微妙な違和感や曖昧な感じはあったけれど、ずっとそれをあたりが暗いからだと意味付けていた。しかし、それは違ったのだ。ここは、この真っ暗な街は、ぼくが住んでいる街とはまったく異なる。バイトを始め、外に出るようになるまでは、まるで気がつかなかったが、ぼくの家の近所に、こんな風景はないし、現実世界において夢の中は街並は、まったく見覚えがなかった。
 ここはぼくの街ではなく、彼女の街だったのだ。
 彼女とは勿論、ぼくを追いかける謎の女性だ。
 眠りに落ちたぼくは、彼女に引き寄せられるようにして彼女がいる街に連れていかれる。そして彼女の街についたところで、ぼくは自我を取り戻すのだ。けれど、そこから先は変わらない。やはりいつものように。ぼくは彼女から逃げる。逃げて、逃げて、逃げるだけ。逃げている最中に彼女に追いつかれてしまったら、もうそこで終わりだ。一寸も動けなくなったぼくの胸に、彼女は容赦なく短刀を突きつける。
 しかし彼女に追いつかれる前に公園まで行けたのなら話は別だ。
 煉瓦道を抜け、長い階段を上り、三叉路を右手に折れ、公園に入り、噴水の傍に落ちている包丁を拾ったとき、その瞬間からぼくは彼女に対抗することができる。落ちているのは果物ナイフよりもふた回り大きいだけの、いたって普通の包丁だ。だが、その包丁を持てば、何故かぼくは彼女を相手にしても動くことができるのだ。いや、正確に言えば包丁を手に、ぼくは彼女と戦うことさえできる。彼女が繰りだす短刀を躱し、逆に包丁を突きだすことができる。
 そして幾度となく同じ夢を繰り返したぼくは、公園まで彼女に追いつかれることなく走りとおす体力を手にいれ、包丁を手に彼女と交戦するだけの技能も手にいれた。
「――――」
 この夜も、ぼくは公園まで来ることができ、包丁を手に彼女と差し向かった。
 彼女はいつも通りぼくに向かって何か言う。真っ黒に塗りつぶされた人影でしかない彼女。どういう顔をしているのか、どういう表情をしているのかは判らないけれど、何か言うときだけ三日月型に開かれる口。それは、ただ歓喜を現している。ぼくはそれを恐いと思うと同時に、美しいとも思い、嬉しいとも思う。
――来たッ!
 舞うように踏みだされた長い脚、下から掬うように突き出されてくる担当。閃く白刃。これをバックステップで避け、きれいなフォームのまま動きを止めている彼女に向かって包丁を突きだす。それはまるで師匠が弟子に戦い方を教えるようなものだった。剣道における基本の型のように、彼女は洗練されて判りやすくて応用を効かせることのできる動きで攻めてくる。ぼくはそれを見て――ときには自らの身体で受け――冷静に躱し、逆に彼女に向けて攻撃する。ぼくの攻撃が基本に則った、悪くないものであれば、彼女は保っていた残心を解き、くるりと回転することで避け、そのまま同じようにスマートでシャープな攻撃を放ってくる。でも、ぼくの攻撃が偶然に頼った、彼女の教えに反するものであったならば、彼女は怒ったように地面を踏み砕き、猛烈な反撃を返してくる。勿論、その場合、ぼくはなす術もなく、彼女の短刀を身に受け、倒れてしまう。そして、
「――――、――――」
 相変わらず何を言っているか判らないけれど、彼女の教示を受け、眠りに就くのだ。
 眠りに就く?
 それはおかしな表現だ。彼女と戦うこの世界こそ、ぼくが夢見ている眠りの中だと言うのに。眠りの中で眠りに就いたぼくは、現実で目覚める夢でも見るのだろうか。それはまるで、夢と現とが交錯する、胡蝶の夢のようではないか。
 おっと。
 無駄なことを考えていると彼女に怒られてしまう。彼女の薄く開かれた口と、そこに漂う歓喜の微笑みに礼を返すように、ぼくは全身全霊で彼女に反撃する。攻撃、回避、反撃、回避、攻撃、回避、反撃、回避、…………。
 まるで演舞のようだ。くるりくるりと舞うようにして戦う彼女を見ていると、ことさらそう思う。真っ黒なシルエット、人影にしか見えない彼女を見て美しいと思うのだ。もし、本物をこの目で見ることができたならば、それはどんなに美しいことだろうか。彼女はいったいどんな格好をして、どんな貌をして、どんな微笑みを浮かべながら戦うのだろう。
 そしてぼくは。彼女の弟子とも言えるぼくの舞いは、どの程度のものなのだろう。彼女以外の人間と戦ったとき、ぼくはこの包丁でどこまでやれるのだろう、どこまで舞いつづけることができるのだろう。
「――。――――」
 ときに緩やかに。
 ときに激しく。
 近づいては離れ、離れては近づき。
 手を取り合うのではなく、切り合って。
 愛し合うのではなく、殺し合って。
「――――、――――」
 何かを口ずさむ彼女の言葉は、やはり判らない。教示の言葉か、賛辞の言葉か。判らない、判らないが判らないなりに判る。いつの間にかぼくは彼女が言わんとしていることが、判るようになっていた。ああ、今のは踏み込みが甘かったからな、とか。今のはタイミングを誤ったな、とか。
 たとえば、思いきりがつかなくて、攻撃に躊躇してしまったときには、それに対する注意を受ける。
「――――」
「はい、次は気をつけます」
 たとえば、やってくる攻撃を見切って、右側にばかり避けていると、ぼくが右方向に動けないように足も突き出してくる。
「――、――――?」
「左からですか、やってみます」
 たとえば、教わった足さばきを三つぐらい組み合わせて、意表を突くような攻撃をしたとき、彼女は二歩も三歩も下がってから、両手を広げて笑う。
「――――、――――」
「ありがとうございます。練習した甲斐があります」
 はたしてぼくの言葉は彼女に届いているのだろうか。彼女の言葉がぼくに届いていないように、ぼくの言葉もまた彼女に届いていないのかもしれない。けれど、ぼくには彼女の言葉は聞こえないけれど、曖昧には判る。だから彼女も、ぼくの言っていることが、なんとなく判るかもしれない。判らないかもしれない。判ってくれていると嬉しい。


 昼は歌凛ちゃんやバイト先の皆と仲良く暮らし。
 夜は見知らぬ師匠と殺人の腕を磨く。


 現実と夢を交互に渡りながら、ぼくは楽しくやっていた。毎日は楽しく、毎晩も同じように楽しかった。彼女との戦いは、最終的には彼女の勝利で終わってしまうのだけれど、それは夜にいつか終わりが来て、夢がいつか醒めるものだから、仕方がないこと。
 楽しい、日夜だった。


    /


 そんな日々と夜々に終わりが来たのは、ぼくと彼女がそれなりに切り合えるようなってから三ヶ月ほど経ったある晩だった。
 ぼくはいつものとおり公園に辿りつき、包丁を手に、彼女が来るまでの間、ウォーミングアップのために包丁を振り回したり、基本の型を確認していた。この夜の街には、ぼくと彼女しかいない。そして彼女は公園の入口から現れる。ぼくの注意の大半は、公園の入口に傾けられ、いつ彼女が現れても不意を突かれないようにしていた。だから、最初の一撃を躱すことができたのは全くの偶然、あるいはそれまでの訓練の賜物だろう。
 ちょうど、街灯の下で足さばきを整えていたときだった、突然、何者かが天から降って、攻撃してきたのだ。殺意が空を斬る音――そんなものが聞こえた気がして、ぼくは咄嗟に地面に転がった。回転する視界の中、見えたのは街灯の上から飛びおりた黒い影だった。その見慣れた姿に、最初、ぼくはそれが彼女だと勘違いした。
 しかし素早く起き上がって、包丁を構えたぼくに対し、黒い影は飛び下りたままの格好で――つまり、四つん這いの姿勢を保っている。なんとなく違和感を感じ、そのシルエットを注視してみれば、見慣れた彼女のそれとは微妙に異なる。
 こいつは彼女じゃない!
――こいつは、
――こいつは、こいつは、
――こいつは、こいつは、こいつは……敵だ!
 ぼくの顔に疾った動揺を見たのか、影は笑った。その笑いで確信する。彼女の美しい三日月型の笑みと異なり、その影の笑みは卑屈で、残虐で、媚びるようで、誤魔化すようで、そして牙を剥くような、獰猛な笑みであった。
 びゅん! と風を巻いてそいつはいきなり突撃してきた。四つん這いの状態から、犬や馬のように前脚と後脚を交差させ、一気に距離を詰めてきた。ぼくは慌てて包丁を構えなおし、迎撃の態勢を取る。しかし影がぼくの攻撃範囲に這いるよりも早く、そいつは後脚で地面を蹴ると思いきり跳躍した。
 高い。
 ぼくを飛び越えて背後に着地した影は、ぼくが振り向くより早く攻撃を仕掛けてきた。慌てて回避しようとしたが、伸ばされた爪が頬を掠める。影の動きは彼女の判りやすくて、見ていてうっとりするような動きとはまるで違う。ルールを無視し、予測を許さず、人の身体が認める動きを脱却し、野性に還った、直情的で動物的な動き。
 包丁を斜め前に突き出して、伸ばされて無防備となった腕に切りつけようとしたが、それよりも早く突っ込んできた影の頭がぼくの腹にめり込み、――吹っ飛ばされた。
 中空でぼくは思わず包丁を手放してしまう。瞬間、しまったと思うが、もう遅い。しかもその躊躇が災いして、ぼくは受け身をも取り損ね、地面に倒れた。
――影は?
 倒れたままの格好で、顔をあげて影の居場所を確認しようとしたが、どこにも見えない。あの野獣のような、トリッキィな動きをする影は、ぼくの死角に走りこみ、そこから攻撃を仕掛けてくるだろう。だとしたら、こんな風に無様に寝そべっている場合ではない、一刻も早く立ち上がり、地面に落ちた包丁を拾い、構えを作り、応戦の準備をしなければ……と、頭は回っているのだが、身体が動いてくれない。腹に受けた一撃が全身を痺れさえ、筋肉が痙攣を起こしてしまっている。息を込め、腹に力を入れようとしても、ぼくの身体は、ぼくのものでなくなってしまったかのように動かなかった。
 どうしようもない。
 ぴくりとも動かないのだから。
 諦めてぼくは、視線だけを巡らせて、公園を一望した。
「え?」
 そこに影がいた。
 その姿勢は、今まさにぼくに攻撃を加えているように見える。ぼくの注意が逸れた瞬間に、ぼくが抵抗する気をなくした瞬間に、ぼくの死角が限界まで広がった瞬間に。その必勝に瞬間に、ぼくを殺しに掛かろうとした四つん這いの影がそこにいる。
 だが。
 ぼくには何故か、影が止まってみえた。
 公園の真っ只中で、隙を晒している獲物――ぼくのことだ――の目の前で、すべての動きを止めてしまっているように見える。
 いや、違う。
 影は止まっているように見えているのではなく、現に止まっている!
 それは……動けないからだ!!
 何故、動けないか?
 理由は決まっている。
 このところすっかり忘れてしまっていたけれど、この懐かしい感覚は。指の先をぴくりとも動かせなくなる、この感覚はッ!


「――――、――――――――」


 彼女だ!
 公園の入口に彼女が立っていた。
 腕を組んで、脚で地面をコツコツと叩いている。口元をニヤニヤと歪め、心底楽しそうに、公園の真ん中で動けなくなっている影を見ている。そして、今まで影の猛攻をなんとか凌いだ弟子に向け、誉めるように口の端を吊り上げていた――いや、これはぼくの錯覚だろう。
 彼女の力で動きを止められた影は、口惜しそうに歯軋りしているように見えた。
 動けない影に、彼女は舞うように近づき、そして――。
 そこから先の光景は、筆舌に尽くしがたいほど美しいと同時に惨たらしいものであった。彼女は今までにないほど苛烈な動きで舞い踊り、ぼくとの戦いで見せていた遠慮呵責の一切をかなぐり捨て、目にも止まらぬ速さで、動けない影を斬り刻み舞い上げた。その様は、まるで卓越した技能を有する職人が、大きな食材を食べやすいサイズにまで切り刻むようであり、影は、文字通りの血祭りに上げられた。
「…………」
 絶句したぼくの目の前で、微塵となるまで斬り刻まれた影は、夜の街に散って、消えてなくなった。後には緩やかに舞いのスピードを落とし、ゆっくりと動きを止め、きれいな残心を取った彼女だけ残っている。
 ぼくに背を向けていた彼女は、短刀を振りあげた格好のまま、しばらく黒い夜空に浮かぶ、黒い満月を眺めていたが、やがてゆっくりと振り返った。彼女の顔に笑みは見えなかった。言葉もない。ただ、真摯な表情で、這いつくばる弟子を穏やかに見つめているようだった。
 ぼくと彼女は見詰めあった。
 彼女はなにも言わなかったし。ぼくもなにも言わなかった。
 そのまま。
 どれぐらいの時間が経っただろうか。
 夜が明けた。
 影の街における漆黒の夜を拭う朝陽は、やはり黒一色だった。もっとも、ここはぼくの夢の中であり、現実の物理学とは隔絶された空間であるから、同じ黒でも微妙に異なり、ぼくには空の果てから昇ってくる黒い円が太陽だと判ることができた。
 夜が明けたことに気づいた彼女は、ぼくに背を向け、公園の入口へ――いや、出口へと歩きはじめた。なぜか、それがぼくと彼女との、今生の別れのような気がした。踊るようにではなく、ただ普通に歩き去る彼女の後姿が、どんどん小さくなっていく。ぼくは、彼女とまだ別れたくなった。手を伸ばそうとして、いつの間にか身体が動けるようになっていることに気づく。
 彼女の縛鎖は、すでにぼくの全身を戒めを解いていたのだ。ぼくは急いで立ちあがり、今にも公園を出ようとしている彼女の背中に向けて、力いっぱいに叫んだ。
「いかないでくれ!!」
 と。しかしきっとぼくの言葉を、彼女は解さないだろう。
「待ってくれ! ぼくを、置いていかないでくれ!!」
 と。しかしきっとぼくの言葉は、彼女に届かないだろう。
「見捨てないでくれ! お願いだから! 一緒に連れて行ってくれ!」
 と。しかしきっとぼくの言葉は、彼女の耳には音としか聞こえないだろう。
 しかしきっと……あるいは、ぼくの懇願が届いたのか、彼女は足を止めた。けれど振り返ることなく、短刀を持っていない方を適当に振り、それを別れの挨拶に公園を出て行ってしまった。
 その瞬間。
 のろのろと昇っていた太陽が一気に天頂にまで駆けのぼり、夜の街の暗黒は一瞬にして拭いさ――――


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「るべっ! 夜辺ったら! ねえ、もうお願いだから、起きてちょうだい!!」
 びしっばしっ。と頬が鳴り、その痛みに思わず顔を歪める。
「あ! 夜辺? 夜辺!!」
 細く目を開けると、あまりの眩しさに脳がくらくらと揺れた。そのままどうにか耐えていると、ようやく目の前に誰かいて、それが霧崎歌凛であることが判った。
「……歌凛、ちゃ」
 何故か、咽喉がカラカラに渇いていた。
「もう夜辺の馬鹿馬鹿馬鹿!! 二日も眠ったまま起きないから、死んじゃったかと思ったじゃない! もう何で夜辺はこうなのっ! もうっ、もうっ」
 歌凛ちゃんが叫ぶたびに脳が揺れ、血が血管を流れる音が響き、眩暈がした。ここのところ歌凛ちゃんが怒鳴ることは少なくなり、日々は平穏だったけれど、どうしてまた急に元に戻ってしまったのだろうか。それにしても、耳元で怒鳴られるのは嫌だ。頭に響いて、とてもとても痛い。ああ……、歌凛ちゃん、頼むから静かにしてくれ。頼むから……。
 ぼくは、気を失うようにして、眠りの世界に戻った。


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 夢は、見なかった。


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 目が醒めると夜になっていた。
 身体を起こすと吐き気と眩暈が同時に来たが、目を瞑って我慢する。歌凛ちゃんが何か叫んでいたような気がして、ベッドから身を乗りだして下を見てみると、彼女はぼくの椅子に座ったまま眠っていた。
「うっ」
 下を向いた拍子だろうか、一気に吐き気がこみ上げてきた。
 ぼくは音を立てないようにベッドから出て床に着地し、そのまま台所に走った。
 流しにこみ上げてきたものを吐き出そうとしたが、胃液しか出なかった。口の中がザラザラして、咽喉の奥が酸っぱくて痛い。食器棚からコップを出して、蛇口から出した水で満たし、一息に飲み乾す。二杯、三杯。
 水分を取りようやく落ち着いて、コップをそこに置いたまま、ぼくは食堂に入り、椅子のひとつに腰を下ろした。
「…………ふう」
 窓から月明かりが差し込んでいるだけの暗い部屋。テレビの画面に、椅子に座ってぐったりしているぼくが反射して見える。
 奇妙な確信があった。
 長い間、ぼくを捕らえていた悪夢は、もう二度とぼくを苛ませないだろう。
 ぼくはもう二度と夜の街に誘われず、そこで彼女に会うこともないだろう。
 掌を見る。
 ここ数ヶ月、毎晩のように包丁を握りしめていたからか、掌を擦るとゴツゴツとした感触があった。いや……夢はやはり夢に過ぎない。この掌はきっと、包丁を握りしめていたからではなく、包丁を握りしめたつもりになって拳を握っているうちに、こんなにゴツゴツするようになったのだろう。
 ぼくは立ち上がって、台所から包丁をひとつ持ってきた。
 不思議なことに、その包丁はぼくの手の中にすっぽりと収まり、掌のゴツゴツとしていた部分が、包丁の柄を包みこんだ。きっと、錯覚だ。錯覚に違いない。
 心の中で何度か「錯覚だ、錯覚だ」と唱えたが、むしろ唱えるたびに包丁は、ぼくの手に馴染んでいった。そしてそのうちに包丁がぼくの手と一体化してしまったような不思議な感覚に襲われ、ぼくは無意識のうちに立ち上がって型を確認していた。
 舞うように踊り、包丁を振りまわし、刃物が風を斬る音を耳で聞く。夢の中ほど軽やかに動くことはできなかったけれど、リアルに感じる重力と包丁の重さはちょっとした感動だった。それは初めて竹刀でなく木刀に触らせてもらった剣道の初心者が感じるものに近い。ぼくは微笑んだ。ようやく本物の包丁を手にできるほど上達したのだ。本物の包丁を構えて、テレビに反射する自分の姿を見てみた。口元に浮かんだ三日月型の微笑みは、彼女のそれとそっくりだった。はは、こんなところまで師匠に似たか。
 ぼくは包丁を持ったまま家を出ると、西へ向けて歩きはじめた。北でもなく、東でもなく、南でもなく、西の方角に――彼女と、夢の中の影の街は、西にあるような気がした。これはぼくの直観に過ぎないけれど、今にして思えば、あのとき手を振った彼女は東から昇る黒い太陽とは逆の方向を指差していたように思える。
 きっとあの街には、本物の短刀を持った本物の彼女がいるのだろう。
 それにぼくが戦って負けた、あの野獣のような影も。本物の牙と本物の爪を持って、今日も犬のように草むらに隠れていたりするのだろう。
 ああ。
 早く、逢いたい。


    /    /    /


 生まれたばかりの殺人鬼は、昇る朝陽に背を向けて歩きつづけた。
 上奈市と呼ばれる街で、文檻殺夜と邂逅――あるいは再会――を迎える、そのときまで。

秋山真琴 [KIkzW-dtfKr-ZTbkz-djTyd] HomePage 2004/02/26(木) 10:08:13
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