一匹の猫を巡る真夏の狂想曲

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 みなさん、こんにちは。秋山真琴です。
 本作品は六門イサイさんが主催している短編企画参加作品です。
 原稿用紙で換算すると30枚弱ですが、改行が多めなので実際は20枚強しかありません。
 読まれた方は、ぜひ感想を書き込んでください。それでは――、
 物語をどうぞ。

秋山真琴 [KIkzW-Tpvab-ZRtub-CGETO] HomePage 2004/05/19(水) 07:15:56

 目の前を通りすぎてゆく黒猫の後姿を撮ろうと思って、デジカメのファインダを覗く。
 福袋に入っていたデジカメが、ピントを自動的に合わせきる前に、黒猫はどこかに消えてしまった。
 黒猫が歩いていた地面には、二本の足が突っ立っている。健康的に焼けた小麦色の足と、ここのところ流行りのスニーカ。ぼくは閉じていた片目を開いた。夏の陽射しが目に突きささる。視界が白く染まり、ぼくから闇を奪う。その寸前に見えた光景が、灼けきれた視神経を乱暴に突きすすむ。
 目を瞑り、額から頬を伝い、顎にいたった汗を拭う。
 ぼくの目は今、目蓋の裏側と、目を閉じる前に見えた女の子の姿を見ている。
 彼女は真っ黒い髪、肩口まで伸ばしていて。夏物の制服を着ていた。
 目を開く。
 彼女はいなかった。
 猫もいなかった。


    ◆


 ぼくの名は、笹城壮。
 本名ではない。
 親から与えられた本当の名前は、ひらがなにして六文字、漢字にして三文字もあって長ったらしくて嫌いだ。
 せめて一文字であれば良かったと、物心ついたときから思っている。
 そう。
 澄みきった青空が、ぼくのなかにイメージとして生まれる。
 もし違う漢字だったならば、ぼくは今のぼくのようにはならなかったのではないだろうか……。
「まあ、名前なんて所詮、記号だけどね」
 肩をすくめ、手元のデジカメを、バックパックの中にしまい、立ち上がる。
 ぼくは一昨日から、街中の様々なものを撮ってまわっている。
 はじまりは一週間ほど前のことだ。
 大学で同じゼミの工藤から、ぼくはある依頼を受けた。何でも工藤は、何人かの有志と共に学園祭でミニコミ誌を配布するようで、そこに掲載する写真が欲しいのだそうだ。
「なんで、ぼくなんだ」
「適材適所という言葉があるだろう。壮君。十代二十代の子供は、誰もが自分を特別だと思いたがり、自分だけの視点を持ちたがる。その中において、君の視点は無意識のうちに突出している。重要なのは上手く撮影する能力ではない、撮影の対象を探しそれをどのアングルから撮影するかの、撮影者独自の視点だ」
 工藤の言ったことは正直、よく判らなかったが「壮君」と呼ばれたことにぼくは気をよくして、ミニコミ誌の制作に協力することになった。
 撮影は今日で三日目になる。
 毎日、このデジカメに記録できる容量いっぱいまで写真を撮っている。
 後もう二日も続ければ、結構な量になるだろう。
 工藤は撮影する能力は重要ではない、と言うようなことを言っていたがぼくはそう思わない。脇を締める、ピントを合わせる、の他にも写真を取る上で、注意しなければならない点は多いだろう。
 しかしぼくは写真部ではないし、そんな注意点を知らないし、知りたくもない。
 ならば、数撃ちゃ当たるの理論で、撮って撮って撮りまくるしかないだろう。
 当然の帰結だ。
 そしてぼくは今日も、講義をサボって街を歩いている。
 教授の話を聞くだけの講義なんか聞くぐらいなら、写真を取ってまわった方が楽しい。
 空き缶を見つけたときは、中に幾つか小石を入れて角度を調整した上で撮った。
 踏み切りを見つけたときは、手前と奥の遮断機が絶妙な角度を見せる瞬間を撮った。
 日が暮れそうになったときは、沈む太陽と山とが作る角度に合わせ何枚も何枚も撮った。
 そして今日も、ぼくは撮るべき対象を探し、街を歩いていたのだ。
 バックパックを背負い、歩きはじめながらぼくは撮るべき対象と、見失った黒猫と、確かにいたはずの女の子を探す。もし、ぼくが目を瞑る前に見えた女の子が、白昼夢や陽炎による見間違いでなければ、彼女はまだこの近くにいるはずだ。
 女の子が行った場所は、ある程度だけれど推測できる。
 今は夏で、今日はとても暑い日だ。
 誰だって焼けたコンクリートの上よりも、木漏れ日を受けるひんやりと湿った土の上を歩きたいはずだ。
 ぼくは公園の出口に背を向け、ちょっとした迷路になっている森の方へ歩きだした。
 遠くから水の流れる音と、子供たちの遊ぶ声と、猫の鳴き声が聞こえてくる。
 判断が正しかったことを確信する。
 さらに進む。涼しい方へと。
 じわり、とふきだす汗を拭い、さらに歩く。
 小道を抜け、木の枝から飛び下りて突っ込んできた蝉を手で払う。
「ふう」
 溜息をついて見上げた先に、青々と繁った大木。
 その根元に女の子が座り込んでいた。
 ハンカチを広げ、その上に腰を下ろしている。制服のスカートにはアイロンが掛けられていて、ブラウスには木漏れ日が突き刺さっていた。
 女の子は目を伏して、膝の上で丸くなっている猫を撫でていた。
 まだぼくには気がついていない。
 足音を忍ばせて女の子まで後、十歩というところまで近づいた。
 バックパックからデジカメを取りだす。音を立てないように注意しつつ、ファインダを覗き、シャッタを切る。音と光は出ない設定にしてある。ぼくは立て続けに同じアングルから、三枚の風景をデータとして取り込んだ。
 女の子が顔を上げる。
 その眼は、肩口で切り揃えられた髪と同じようにきれいな黒色だった。
 きれいな瞳が、ファインダを通してぼくの網膜に焼きつく。
「やあ」
「……やあ」
 男の子のような挨拶に、ぼくは同じ言葉を返した。
 カメラから目を離し、女の子の生の視線を受けとめる。
 猫が顔を上げるのが見えて、ハッとする。ぼくは頭を下げた。
「勝手に撮ってごめん。ぼくは藤影大学経済学部の二年生、笹城壮。サークルで発行するミニコミ誌に載せるために、写真を撮ってまわっているんだ」
「そう」
「君。さっき、下の公園にいたよね」
「いた……追いかけてきたの?」
「追いかけてきた。良かったらもう何枚か、違うアングルから撮らせてほしい」
「どうぞ」
 ぼくは木の根に腰を下ろしたまま動かない女の子に近づいて、さらに四枚ほど写真を撮った。最初に見えた小麦色の足は、近づいてみるとしなやかな筋肉が踊っていて、女の子が見た目以上に精悍な身体つきをしていることが判った。
「そう言えば」
 ぼくがファインダから目を離したタイミングを突いて、女の子は口を開いた。
「自己紹介がまだだったね。私はキョーコ。よろしく」
「よろしくキョーコちゃん」
「たしか笹城壮だったね。壮君と呼んでもいいかい」
「構わないよ」
「壮とはどういう字を書くのだろう」
「壮観の壮だよ」
「壮絶の壮だね」
「そう」
「そう……ふふっ。勇ましくて格好いいね。一文字だけの名前とは、なかなか思い切りがよくていいよ。羨ましい」
「え、うそ」
「うそ? 壮君は自分の名前が嫌いなのかい。私は気にいったよ。そうだ、もしよければ、私のことはキョーとだけ呼んでくれないだろうか。私も名前が一文字の人間になってみたくなった」
「いいけど……キョーちゃん」
「いいね、キョーちゃん。呼ばれてはじめて判るけど、くすぐったいね」
 キョーちゃんは口の隅をくいっと上げて、本当にくすぐったそうに笑った。
 太陽が一歩進み、風が吹き、木漏れ日が猫の目の上に当たった。
 猫は一声鳴いて、キョーちゃんの膝の上から飛び下りた。その隙にキョーちゃんは、滑るような動きで立ち上がった。座っている状況から立ち上がる。ただそれだけの動きなのに、それは限界まで無駄がカットされ、とてもきれいに見えた。
 立ち上がったキョーちゃんは、ぼくより頭ひとつ分、背が低かった。
「良ければ、今までに撮った写真を見せてくれないか」
「どうぞ」
 ぼくはデジカメのモードを、撮影から確認にしてからキョーちゃんに渡した。
「今は最新の映像が表示されている。左ボタンを押せば一枚ずつ古いのが見える」
「判った」
 キョーちゃんは受け取ったデジカメを、落とさないように慎重に持ち直し、それから一枚一枚、吟味するように時間を掛けて今日、撮った分の写真を見ていった。
 立ったままのキョーちゃんの足許に、猫が戻ってきた。猫はしばらくキョーちゃんの足にまとわりついていたが、キョーちゃんがデジカメから視線を離さないのを見て、猫は彼女が座っていたハンカチの上に寝転んだ。
「縮小表示されていても判るね、写真の良さが」
「そ、そうかな」
「うん。どれも素晴らしい。壮君は写真部なのかな」
「いや部活には入ってない」
「このデジカメは誰かから借りたのかい」
「正月に買った福袋の中に入ってたやつ」
「なるほど……だとするとこれは」
 最初の写真――キョーちゃんを撮ったもの――に戻ったのだろうか、彼女はデジカメを落とさないように丁寧にぼくに返した。
「天性の才能というやつだね」
「天性の……才能?」
「そうだ。壮君には、常人が持ちえない、特異な視点を持っている。物事を他とは違った面から観察し、それがもっとも光り輝く瞬間を切り取るように保存する能力を持っている」
「そんな。それは買いかぶりだよ」
「買いかぶってなどいない。壮君はもっと自分を、客観的に、そして正当に評価すべきだ。そうだ。今日この後どうするのかい。もし撮影を続けるのならば、付きあわせてほしい」
「それは……別に構わないけど。キョーちゃんの予定はいいのかい」
 ぼくは彼女の制服に目を向けた。
 今、気がついたけど彼女は何だって夏休みの真っ最中に、学校の制服なんかを着ているのだろう。もしかして補講とか補習とかだろうか。
「私の都合なら大丈夫だ。さあ、時間が惜しい。早く行こう。壮君が写真を撮っているところを、私に見せてくれ」
 キョーちゃんはぼくを急きたてるようにして公園の入口へと向かい、それから思い出したように大木の根元に戻り、ハンカチとその上でまどろんでいた猫を回収した。


    ◆


 ぼくはキョーちゃんを連れ添って街に出た。
 よく考えれば、女の子を含む何人かと街を歩いたことはあっても、ふたりきりで歩くと言うのははじめての経験かもしれない。
 これが普通のデートならば、ぼくは彼女を美味しい料理屋や、きれいな景色の見えるところや、可愛い洋服の売っている店に案内するべきなんだろうな。
 ファインダから目を離さないままにそんなことを思う。
 ぼくは、駐車場の入口付近に座りこみ、止まっている車が出てくるのを待っている。キョーちゃんはぼくの隣で、静止したぼくを見ている。
 遠くで蝉が鳴いている。
 ぼくの目の前を猫が通りすぎる。シャッタを切る。
 でもこれは本命ではない。
 さらに待つ。
 キョーちゃんが立ち上がってどこかに歩いていった。自動販売機の中で缶が転がる音がする。キョーちゃんが帰ってきた。
 プルタブを引っ張る音がして、隣でキョーちゃんの咽喉が鳴る。
「飲むかい?」
「いや」
 短い会話の後、ぼくらを不審そうに見下ろしながら、スーツ姿の男性が駐車場に入っていた。彼は駐車場の奥まったところに止めてあった車の中に身を滑らせた。とても熱そうだ。清涼飲料水を飲み終えたらしいキョーちゃんが、空き缶を地面においてそっと蹴った。
 空き缶が転がる。シャッタを切る。
 猫が転がっていく空き缶と戯れている。シャッタを切る。
 男性を乗せた車が、駐車場の入口に向かう。
 ファインダを覗くぼくの目が見開かれる。車が白線を越える。
 ぼくはシャッタを切った。
「いいのが撮れたかい?」
「うん。次に行こう」
 立ち上がったぼくはしかし、目眩に襲われてふらりとした。
 視界が真っ暗に染まり、前後が判らなくなる。
 カメラだけは守らなくてはならないと思って、手を握りしめる。カメラの固さが、なんとか神経を通して脳へと伝わってくる。
 今、ぼくは立っているのだろうか、倒れて横になっているのだろうか。
 遠くで声が聞こえる。
 耳鳴りの合間を縫うように、誰かの声が聞こえる。その声が聞こえてはじめて気がついた。耳鳴りがしている。
「壮君ッ!」
「うん、大丈夫」
 気がついたとき視界は、夏の街を見ており、耳はキョーちゃんの声や猫の鳴き声を捉えていた。ぼくはしっかりと二本の足で立っていた、カメラは落とさずに抱えていた。
「大丈夫」
 ぼくは繰り返した。
「ちょっと目眩がしただけだから」
「本当に? そこに喫茶店があるから入ろうか?」
「いや……」
 ぼくは首を振ろうと思ったけれど、少し考えてから横にではなく縦に振った。頷いた。
「そうしようか」
 微笑んだキョーちゃんの首を、汗が伝う。
 多分、喫茶店に入りたいのはぼくではなく、彼女の方だ。
 カランコロンとカウベルを鳴らして、ぼくたちは喫茶店に入った。猫は外に置いてきた。
 喫茶店の中はクーラーが効いていて、心地よかった。
 入口の近くのテーブル席には、なんということだろうか、この暑いのに全身黒づくめの青年が座っていた。彼は涼しい顔で文庫本を読んでいる。ぼくらは若いマスターが指し示した、カウンタ席についた。
「アイスコーヒー」
「ぼくも」
 風にぼくの前髪が踊った。
 隣を見ると、キョーちゃんが団扇を持って、それで自分を扇いでいた。
 どこにあったの――目で問い掛けると彼女は、入口付近のラックを指差した。雑誌や漫画本に並び、同じデザインの団扇が幾つか立てかけてあった。
 立ち上がって取りにいくのは面倒だったが、女の子とふたりなのだから、少し身だしなみに気を遣うべきだろう。ぼくは立ち上がって、団扇をひとつ取って席に戻った。
 団扇には喫茶店の他に、何軒かの居酒屋やレストランを含む飲食店の名前が並んでいた。
 やがてぼくらの前に、アイスコーヒーが並んだ。
 それに素早く手を伸ばしたキョーちゃんに一拍遅れ、ぼくも手を伸ばす。グラスはキンと冷やされており、咽喉を通るアイスコーヒーも程よい渋さと甘さが協調しあっていて、とても美味しかった。
 咽喉が渇いていたこともあり、一息に飲んでしまいたかったけれど、ちょっとしたことを思いつき、ぼくはグラスから口を離した。
 テーブルの上にアイスコーヒーが半分だけ残ったグラスを置く。
 ちょうどいい量だ。
 ぼくはバックアップからデジカメを取りだす。
「あの、マスター」
「何でしょう?」
 カウンタの向こうでグラスを拭いていたマスターが顔を上げる。
「藤影大学の笹城と言います。今度、大学でミニコミ誌を作ることになって、そこに掲載する写真を撮ってまわっているんですが、このグラス、撮ってもいいですか」
「ええと……いいですよ、どうぞ」
「ありがとうございます」
 ファインダを覗き、素早くシャッタを切る。
「相変わらず眼の付け所が違うね」
 隣を見ると、キョーちゃんが真剣な目つきでぼくのことを見ていた。
「うん、これはかなりいい」
 ぼくはさらに別のアングルから、グラスに残ったアイスコーヒーを撮った。
 最終的に四枚ほど撮ってみたけれど、一番、出来がいいのは案外、最初に撮ったやつかもしれない。
 デジカメをバックパックにしまい、残ったアイスコーヒーを飲み乾す。
「ふう、美味しかった」
「そうだね」
 キョーちゃんの前を見ると、そこにはいつの間にか空になったお皿とフォークが置いてあった。
「これ、どうしたの?」
「見てのとおり、ケーキを頼んだのさ。気がつかなかったのかい?」
「うん……」
 本当に気がつかなかった。
 彼女は一体、いつの間にケーキを頼み、それを平らげていたのだろう……。
 ぼくらは別々に勘定を済ませてから、喫茶店を出た。すぐに扉の脇の植え込みから猫が飛び出してきて、キョーちゃんの足に飛び掛った。
「この子、待っていたのだね」
 キョーちゃんは微笑むと、猫を抱きかかえた。
 ぼくは猫の首元を覗きこんだ。
「首輪はないみたいだけど……キョーちゃんが飼ってるの?」
「いや。さっきの公園で見つけたのさ」
「じゃあ人懐っこい猫なんだね」
「そうだね。うん、随分と人懐っこい猫だ」
 ひさしの下から出ると、外はまだ凄まじい暑さをほこっていた。
「そうだ。この猫に名前をつけてあげようよ」
「名前……それはどうだろうか」
 キョーちゃんは猜疑的な視線を投げかけてきた。
「私は家で犬を飼っている。この猫をつれては帰れない。壮君はどうだい?」
「うーん、ぼくは寮だから。ペットは禁止だね」
「下手に名前をつけて、懐かれては困ると思わないかい?」
「既に懐かれて思うけど」
「……それもそうだ」
 キョーちゃんは小首を傾げてから、猫を地面に下ろした。
「どうしようか」
 キョーちゃんは口元に手をやり、真剣に考え込んでいる。
 シャッタチャンスだとぼくは思った。
 彼女に気付かれないようにバックパックからデジカメを取り出す。
 そのままさりげない動作で、ファインダを覗きシャッタを切る。
「あ……また撮ったね。まあ、いいけど」
 キョーちゃんは眉を弓なりに反らしてぼくを睨んでから、また猫のために考えはじめた。
 ぼくはしばらく彼女のために、何もせずに沈黙を捧げた。
 キョーちゃんは考えつづけている。
「ねえ」
「何だい?」
「何を悩んでいるの?」
「どうすればいいのかと思って」
「何を?」
「猫をだよ、壮君」
「どうすれば、って。どういう意味?」
「……あのねえ」
 キョーちゃんは溜息をつくと、スカートのポケットから可愛らしいハンカチを取り出して、それで額の汗を拭った。
「この猫を見て」
 猫はキョーちゃんの足にまとわりついている。
「私も壮君も猫を飼えない。でも猫はこのとおり。どうすればいいと思う?」
「さあ」
「……そうだっ!」
 突然、何かいい案を思いついたのかキョーちゃんはにんまりと微笑んだ。
 そのままキョーちゃんは細い腕を伸ばして、ぼくの手首を捉えると一目散に駆け出した。
「キョ、キョーちゃん?」
「逃げるよ!」
「はあ」
 よく判らないが。
 ぼくとキョーちゃんの逃避行が始まったようだ
 キョーちゃんのしなやかな脚が跳ね上がり、コンクリートを蹴りつける。グンと加速する彼女に引っ張られるように、ぼくも地面を踏みしめる足に力をこめる。
 道を駆け抜ける。
 角を曲がる。
 揺れる景色の中、猫がぼくらを追いかけはじめたのが見えた。
 顔を正面に向ける。
 トラック。
 ほぼ正方形に近い形をした暴力が、向かってくる。
 キョーちゃんがぼくの手を引っ張る。
 横向きの力が加えられ、間一髪、トラックとの正面衝突を避ける。避けることができた。
 猫はできなかった。
 ボン、とも
 ポン、とも違う。
 重く軽やかな音が響き、
 トラックは去った。
 ぼくは振り向いた。
 キョーちゃんが震えているのが判る。
 儚くも短い逃避行が終わったことは、一目瞭然だった。
 猫は、ゴミの上に被せる緑のネットに包まるように横たわり、静止していた。
 キョーちゃんがぼくの手を離す。
 ふらりふらりと、動かない猫に近づく。
 タン――とキョーちゃんが踏み鳴らしたコンクリートに我に返る。今まで聞こえなくなっていた蝉の鳴き声が聞こえるようになり、熱を感じなかった陽射しが煩わしいものに戻っていた。
 ポケットからハンカチを取りだし、それで額の汗を拭った。それは夏の暑さに反応して湧いた汗というよりも、何か不吉なものを忌避するかのように、ぼくの体内から吐き出された恐怖のようであった。
 怖気づいているぼくの目の前で、キョーちゃんはその制服が汚れることも厭わず、傷ついた猫を抱き上げた。夏の幻想か、ぼくには猫のひと鳴きしたのが聞こえたが、同じものがキョーちゃんの耳にも届いたかどうかは判らない。
 何分ほどそうしていただろうか。
 気がついたときぼくの手の中には、デジカメが収まっていた。キョーちゃんはまだ猫を抱きしめて、立ち尽くしていた。ぼくはデジカメのファインダを覗き、人差し指をシャッターに掛けたが、結局、写真は撮らずにそれをバックパックに戻した。
 こうして。
 狂おしく咲き誇る夏は、その一幕を降ろした。


    ◆


 遠い昔にかよった小学校。
 その校庭。
 シャベルを放りだし、ぼくはキョーちゃんから受け取った猫の亡骸を、湿った土の中に寝かせてやった。角度を調整してあげてから、掘りおこした土を猫の上に掛けていく。
 作業をしている間、キョーちゃんは一言もきかなかった。ぼくも何も言わず、ただ黙々と埋葬を済ませた。
「……ふう」
 最後に地面をならし、立ち上がったとき腰に軽い痛みが走ったが黙殺する。
 横を見るとキョーちゃんはいつの間に持ってきたのだろうか、木片を持っていた。
 ぼくはバックパックから筆箱を取り出した。
 中に入っていたマーカーペンをキョーちゃんに手渡すと、彼女は木片に整った字で〈京〉と一文字だけ書いた。
 マーカーを受け取り筆箱にしまい、バックパックの中に戻す。
 次に木片を受けとり猫の――京の墓の標とする。
 黙祷。


    ◆


 夏休みの校庭の一角に、墓標の影が伸びる。
 それは失われた夏の欠片に似ている。
 陽炎の狭間に消えてしまった。
 今はもう取り戻せない、一日だけの幻想。
 その日が確かに存在したことを証明する一枚の写真。
 それはまだ。
 彼のデジカメの中に眠っている。

秋山真琴 [KIkzW-Tpvab-ZRtub-CGETO] HomePage 2004/05/19(水) 07:16:32
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