哲学者のナイフ

[戻る] [感想室] [投票] [関連ページ・サポートページ]
>90年代以降に訪れた新しい現実をフィクションで描いていくためにはどのような方法論を採っていくべきなのか。この“新伝綺”という切り口は、その命題に対する『ファウスト』なりのひとつのアプローチです。端的に言うと、それまでの“日常”と“非日常”が溶け合って成立している“たった今”の新しい現実を描くためのフォーマットとして、「伝奇」という、もはやエンタテインメント文芸のメインストリームからは忘れ去られようとしている旧いフォーマットを延長させた方法論が今こそ有効なのではないか、ということです。(中略)80年代伝奇は峻別された“日常”と“非日常”の逆転をカタルシスとする物語構造を持っていたがゆえに冷戦構造下の二極化した世界で隆盛を極め、冷戦の崩壊とともに必然的に没落していった。ひるがえって、ゼロ年代の現在は、隣の国の核ミサイルも遠い国からやって来たテロリストも日本転覆を企む宗教結社も小学生を惨殺するクラスメイトも“たった今”僕たちのすぐ隣に確実に存在する。今やそれ以前の“日常”は“非日常”と、“非日常”は“日常”と溶け合って成立している。そういった、90年代以降に訪れた新しい現実を前提としたゼロ年代以降のための新しい伝奇小説、それが“新伝綺”です。
(メールマガジンファウスト[第十九号]より)

 物語をどうぞ。
(感想室ニ後記アリマス)

秋山真琴 [KIkzW-Tpvab-UKihK-eeObU] HomePage 2004/06/11(金) 06:55:15

 例えばここに最強の矛があったとする。
 その矛は既存のあらゆる理論を超越して、その最強性を永久に保持する。それはその矛が時間と空間の制約を受けないことを意味し、持ち手を限定せず、対象すら意識しないことを意味する。
 平易な言葉で言い換えれば、たとえその矛を手にしたのが齢三歳の幼児であっても、その矛はその最強の力を最大限に発揮するのだ。必殺の業を極めたものも、無敵の戦歴を誇るものも、伝説に謳われるものも、何人も最強には敵わない。
 今、その矛をある男が手に入れた。
 男は数週間前までは、公園のダンボールハウスで暮らしていた。
 社会的な視点に立てば、その男が矛を持つことは不自然極まりないだろう。矛は最強で、最強の矛に相応しいのは最強の男、あるいは女。何らかの道を極めしもの、何らかの志を抱えしもの、とにかく最強の使い手にはそれ相応の何かが求められるだろう。
 しかし現実はそこまでシンプライズされていない。
 ただ単純に一流の大学を出ているとか一流の会社に勤めているからと言ってそのものが一流であるとは限らないし、出自が名家であるからと言ってそのものが何らかの名人であるとは限らないし、親が天才だからと言って子も天才であるとは限らない。いや、そもそも、そうではないのだ。一流であっても、名人であっても、天才であっても、現実においてそれはけして最強と釣りあう要因にはなりえない。
 最強とはどこまでも孤独なのだ。
 最弱ですら、最強と狎れあうことはできない。
 唯一。
 究極的なまでの限定、一個という他を承認しない孤高の存在。
 最強は唯一であるが故に最強であり、唯一でない、他と交わることをよしとする最強は、もはや最強足りえない。
 ならばこの男の場合はどうなのか。ただひとり、公園で寂しい夜を過ごすこのホームレスの男は。この孤独な男は、最強の相棒に相応しいのか、唯一なる最強に相応しいのか。
 答えは否である。そもそも前提が間違っている。
 男はけして孤独ではなかった。
 男が寝起きしている公園には、他にも多くのホームレスがおり、年長者の彼は他のものから敬意を持って接されていたし、彼もまた他のものたちに敬意を払っていた。お互いに尊重しあう間柄。濃密度な友情がそこには確かにあった。
 とは言え、そんなものは上澄みに過ぎない。男は勿論、彼の仲間たちも、底の底には孤独を有していた。けれど、心の奥底に孤独を抱えているのは、何もホームレスだけではない。誰だって持っているものだ。
 そろそろ話を前へ進めよう、事実を語ろう。
 最強の矛を手に入れた男はしかし、最初の晩、ただのひとりも斬らなかった。
 同じ公園に住んでいるホームレス、道ばたを行く学生、酔って路上に吐瀉物を撒き散らす酔っ払い。それが誰であれ、男は容易く、彼らを斬り伏せることができたのだ。騒ぎを聞いて駆けつけてくるであろう警察官も話にならない。最強をもってすれば、瞬殺である。そしてホームレスとしての彼の土地鑑があれば、闇から闇へと飛び交い、追っ手を巻くことも簡単だろう。
 けれど男はそうしなかった。
 男は慎ましかった。
 ひょんなことから最強を手に入れても、最強に溺れず。無闇に人を斬らなかった。
 男がはじめて人を斬ったのは三日後だった。
 ふたり目はその一週間後。
 三人目と四人目はその四日後。
 矛を手に入れてから三週間。男はまだ四人しか斬っていなかった。


    ◆


 矛を手に入れたまさにその瞬間から、男は焦燥感に襲われることになった。最強を持っている限り、未来に待ち受けているであろういかなる人為的な不安も、不安に至らないというのに、それでも男は未来に不安を覚え、恐怖した。
 具体的に、男が脅えたのは自身の外側から与えられる圧迫感ではなく、自身の内側から滲みでる衝動だった。人望に厚く、冷静沈着で、人を恨むということをしなかった男だったが、少なからず自分をホームレスに導いた社会に、マイナスイメージを持っていた。
 男は力を手に入れた。それもただの力ではない、最強の力を。
 今こそ復讐の刻限だと男は思った。
 同時に、慎重にことを進めなければすぐに足を踏み外すだろうと男は確信した。
 最初の晩、男は矛を抱きしめたまま、何をするでもなくダンボールハウスの中で横になりつづけた。それは実に辛いことだった。矛を通して、身体中の筋肉が蠕動し、身体の芯から活気が湧き出てきているというのに、それを押さえつけて、ただじっとすることはただそれだけであるのに本当に辛かった。
 ひたすら身体を動かす労働が、動の苦行だとしたら、男がその晩、たった独りで行ったのは、静の苦行と言えるだろう。
 男は悟っていた。
 この矛の使い手となった以上、自分はこの矛の使い手でありつづけなければならないと。
 刹那も気を緩めてはいけなかった。そう心掛けていなければ、すぐにでも最強に囚われ、矛に使われ、身を滅ぼすだろうと。過度の興奮と極度の緊張が誘う、意識と無意識の狭間の中で見た、矛を過信して無惨に斬り刻まれる自分の姿が、男の網膜に焼き付いて離れなかった。


    ◆


 最初に斬ったのは、男と同じホームレスの青年。
 この世から消えても誰も心配しない――ただひとり、心配したであろうものは、他の誰でもない男自身だ――ような、ホームレスの中でも性格が悪く、皆から嫌われていた青年だった。
 青年のダンボールハウスに招きいれられた男は、まず持参したアルコール度数の高い酒を振る舞った。青年がそれに口をつけたところで首を刎ねて、返す刃を心臓に突きたてた。まがうことなく即死だった。
 狭いダンボールハウスの中で、仲間を冷静に殺し、男は自分が同属殺しになったことを静かに噛みしめ、そして仮に自分がこの矛を手に入れた最初の晩に殺しを働いていたならば、自分はきっと耐えられなかったことだろうと思った。
 狂うことにではない。
 殺しつづけないことに、だ。
 薄汚れたタオルで矛の切っ先を拭きながら、男は無惨な姿となった、かつての仲間を眺めやる。それは酷く醜く、酷く汚れていた。
 タオルを投げ捨てて、男は死体の傍で肩膝をつき、しばしの時間を黙祷に捧げた。
 黙祷が終わったとき、男はひとつの哲学を得ていた。
 哲学はまだひとつだったが、これから人を殺すたびに、それが増えていくであろうことはなんとなく予想がついた。
 殺人を犯すたびに哲学をひとつ増やしていこう。それで自分の精神を守ろう。なるべく強固な哲学を手に入れよう。完璧な哲学が手に入ったとき、自分はきっと、最強に相応しい存在になるだろう。最強の矛を駆るに相応しい、最強の相棒になっているだろう。もしかしたら、矛を要しない、最強そのものになっているかもしれない……。
 男はダンボールハウスから這い出た。


    ◆


 あの晩、編み出した哲学を何度も何度も吟味する。
 最強の矛が現実に存在し、手で触れることができる刃物だとすれば、男の中に生まれた哲学は、彼の頭の中だけに存在する理論の刃物だろう。その刃物の斬れ味は、男が哲学を磨けば磨くほどに鋭くなった。男は一週間の時間をかけて、仲間の死から咲いた哲学をただ一心に洗練させた。
 満月の晩。
 とある路上にて。
 弧を描いた矛がふたり目の犠牲者――酔っ払いの首を薙いだ。
 突然の衝撃に収縮する血管、半月を描いた矛が戻ってきて酔っ払いの顔面を捉える。その勢いで、血管が緩み血飛沫が巻き散る。
 酔っ払いの身体はゆっくりと前のめりに傾いて倒れた。綺麗な断面図を描く首から、凄まじい量の血飛沫が舞い上がり、男の全身が血に染まる。いや、酔っ払いの身体が倒れきる頃には、男はすっかり返り血に染まっていた。彼は手にした矛の石突きを地面に当て、刈った首を自分の頭の上に掲げていたのだ。
 首から流れ落ちた血の滝が男を洗礼していた。
 一週間前に生まれた哲学が紅く染まり、今、生まれたばかりの哲学が血の海から浮かび上がり、輝かしいばかりの光沢を放っていた。


    ◆


 上奈高校。
 期末試験の三週間前。
 まだ学生の大半が試験の日程を把握していない頃から、八神閃は放課後、図書館に残ってテスト勉強をしていた。
 文武両道を地でゆく努力タイプの八神は、その真面目な生き方から学園紳士と呼ばれていた。あらゆる武道に精通し、試験では上位何名かに入り、ひとつも部活に入っていないのに様々な試合や展覧会に助っ人として参加し、同性異性先輩後輩と分け隔てのない付き合いを持つ。上奈高校の生徒の中には、学園紳士に憧れ、彼を尊敬しているものも少なくなかった。
 ただ、限りなく完璧に近い八神に、たった一箇所だけ瑕疵があるとするならば。
 それは彼が人殺しであることだろう。


    ◆


 元来、必殺・無敵・伝説、これらの言葉は人ではなく技を指す言葉であった。
 そして当然のように、最強も技を指す言葉であった。
 この世には最強に指定されている技が五つあって、そのうちのひとつは十拳流という流派の中に含まれている。一子相伝を絶対とする十拳流を扱える人間は、絶えずふたりしか存在せず、八神閃はそのふたりの内のひとりであった。
 八神は確かに十拳流の継承者であったが、彼は未だ、十拳流、そのすべての技に精通しているわけではない。十拳流には術者の肉体を著しく破壊するものも多く、彼の師匠にして伯父の八神護は、まだ成長過程にある甥っ子にそれらを教えることを自らに禁じている。
 したがって八神閃は伝説や最強と呼ばれる技はまだ使えなかったが、多くの必殺と、僅かな無敵のものは会得していた。
 彼はそれらを使って、人を殺した。
……が、それはまた別のお話。ここでは単に、最強が技を示す言葉であり、その技の使い手が最強と呼ばれるのだと知ってもらいたい。
 それでは、最強の矛とは何なのか。
 ただ単に最強と呼ばれているだけの矛なのか、最強の矛という変わった名前の技なのか、あるいは最強の矛というのは人名なのか。
 否。
 最強の矛とは言わば、最強に指定された技から、それが有する最強性を抽出して、それを形あるもの中に埋めこんだものである。言うまでもなくそれは自然な文脈の中で行われたのではない。人為的な作為がそこにある。
 何者かが最強の技を分析し、それに矛という形を与え、誰でも――文字通り、誰でも。ホームレスであっても、幼児であっても――簡易に扱えるようにツール化したのだ。
 最強の技は、その技の理論を観念的にしろ概念的にしろ、かなりの割り合いで把握していなければ、扱いようがない。しかし、道具化された最強は、その面倒な手続きを要しない。電子レンジの構造を理解せずともスイッチひとつで、冷凍食品を解凍することができるように、最強が付された武器は誰にでも使えるのだ。
 もっとも、誰にでも簡単に使えるというのは、さすがに都合が良すぎる。デメリットもある。それはすなわち、最強の矛は――、
 最強ではない、ということだ。
 最強の矛が最強ではないと言うのは、結構な矛盾だが、それが最強の技から最強性を抽出して他の形の中に埋めこんだということを理解していれば、やむないことだと判るだろう。
 技とは不定形なものだ。矛や剣といった形に縛られない、敢えて言えば使い手の肉体に制約を受ける程度だ。そしてそれ故、使い手が許す限り――使い手の肉体が劣化して滅びない限り――それは万能に等しい作用と、無限大の可能性を有している。
 形を与えられてしまった最強には、それがない。
 状況に応じて形態を変化させるという小技ができないのだ。
 技ならば、発動のタイミングをずらしたり、環境に合わせてアレンジを加えることができる。けれど、例えば矛ならば矛、剣ならば剣、形を与えられてしまった最強は、もはやそれまででしかない。
 それでも。最強は最強。必殺も無敵も伝説も、太刀打ちできないだろう。


    ◆


 これが何を意味するかと言うと。
 未だ無敵の技までしか使えない八神閃がどう足掻こうと、
 最強の矛を持っている男には、敵わないということだ。


    ◆


 八神は夜の街を走っていた。
 夕立に濡れたマンホールの蓋の上を、走り抜ける彼の足はピカピカのシューズに守られている。全身を包む紅いジャージは、機能的にデザインされているばかりでもなく、外面的要素にも気が配られていた。
 人気のない夜道を、コンクリートが蹴られる音と、繊維がこすれる音が満たす。八神は規則的に両足を動かしながら、その両腕も動かしていた。それは身体を前へ動かすための前後運動ではなく、誰かを殴るための動き。いわゆるシャドーボクシングをしながら、彼は走っていた。
 目線はしっかりと前方を捉えたまま、ただ、両腕と上半身の動きがランダムに動いている。ときにワンツー、ときにワンワンツー。敵の攻撃を想定してか、胸を反らしたり、両腕で顔面をガードしていたりもしている。
 その動きは非人間的で、まるで生まれたときからそう動きつづけてきたような、カラクリ人形を連想させた。機械的に仕事をするように、八神は淡々とランニングとシャドーを続けた。
 やがて視界の隅に公園が入った。
 彼はいつもその公園で五分間の休憩を取っている。
 休む前にラストスパートを掛けようと思ったのか、八神は足に掛ける力を増やし、前へ加速した。足の動きが激しくなっていくにつれ、両腕の動きも入り乱れ、もはやどちらの拳を突き出しているのか見えなくなった。
 公園に至る最後のコーナ。
 コーナに差しかかったとき、八神はその晩、はじめて人間らしい動きを見せた。
 前回り受け身。
 それまでの勢いをまったく殺すことなく、八神は躊躇なく前転し起き上がると同時に半回転し、背後に迫った塀を両手で叩きつけて衝撃を逃した。
 顔を上げる。
 コンクリートに書かれていた横断歩道の白線が、真っ二つに裂かれていた。
 できたばかりの裂け目には、月明かりの中、銀色に輝く刃物が見えた。その刃物は現代日本にはおおよそ相応しくない、矛という形状をしていた。
 八神は跳躍する。
 地面に半ば埋まっているかのように見えた刃物が、予備動作なく八神に襲い掛かっていた。切れ切れになったコンクリートが石飛礫のように空中を乱舞し、地面から脱した刃物は、最前まで八神が背をつけていた塀を砕き割っていた。
 跳躍した八神は、塀の上に降り立つと同時に再び跳躍。塀に囲まれている家の敷地内にあった大木に飛び移った。
 枝のひとつに手をついて、八神は振り返る。路上に薄汚れた格好をした男が立っていた。男の服装はみすぼらしかったが、その態度は泰然としており、左手にぶらさげている矛は、違和感なく男の持つ雰囲気の中に溶け込んでいた。
「お前、できるやつか」
 男が低い声で問う。
「そうだ」
 八神は間髪を入れず答えた。
「できるやつには初めて会った。降りてこい、殺したい」
「俺の名は八神閃。おっさんは?」
 姿格好こそやつれているが、男はかなりの手練と見受けられた。名のある矛槍使い――例えば坂城家のような――かと案じ、八神は男に名前を訊ねた。しかし、
「名前は捨てた」
 男は短く答えた。
「最強とは唯一、唯一とはそれだけであること。それだけしかないのならば、他と区別をつけるための名前は不要」
「それはどうかな。名前はただの記号じゃない、それには――」
 八神は軽口を叩くのを止めた。
 男は手の中の矛を無造作に半回転させると、石突きで地面に転がっていたコンクリート片のひとつを弾いた。コンクリート片は一直線に八神目掛けて宙を疾駆した。
 八神は右手を伸ばす。
 コンクリート片の動きは速かったが、その動きは直線的で単純極まりない。予測さえできれば、受けとめることはできる。飛んでくるコンクリート片を握りしめようと、まさに右腕に力を込めた瞬間、視界の先で男がふたつめのコンクリート片を矛の石突きで弾くのが見えた。
 今度の攻撃は鋭かった。
 まるで一度目の攻撃はわざと手を抜いていたかのようだった――実際、手を抜いたのだろう。
 弾かれたコンクリート片は、瞬く間に先に放たれたコンクリートに追いつき、その尻にぶつかった。火花が飛び散る。八神は右手を握り締めた。しかし右手が握りしめたのは、コンクリート片が通り過ぎた直後の虚空で、加速した最初のコンクリート片は今もなお、無防備な八神の顔面を狙っている。
「チッ」
 八神は短く舌打ちして、左手で顔面に触れそうになったコンクリート片を取った。
 間一髪だった。
 コンクリート片を握りしめ、八神は眼下の男を見下ろす。
 男もまた八神を見上げていた。その双眸は、心なしか見開かれていた。驚いているのだろうか。
 八神は十拳流の一拳目を執ることにした。


    ◆


 八神の手の中にあったコンクリート片が放物線を描く。それは冷たい空気を切り裂いて上昇し、夜空に穿たれた銀色の月を横切り、落下をはじめて……、そこまでを目で追ってしまい、男は慌てて視線を少年が座っていた枝に戻した。
 少年はもうそこにいなかった。
 ドクンと矛と蠢いた。
 背後に少年の気配を感じた、男はその場で矛を構え、独楽のように一回転した。
「チッ」
 口惜しそうに舌打ちして、背後に現れていた少年はバックステップで男の大技を躱した。中途半端な距離をどう縮めるか、それともどう広げるか。武器を拳しか持たない少年に考える隙を与えないためにも、男は再び足許に矛を叩きつけた。
 砕き割られたコンクリートが、無数に飛び立ち、少年に襲いかかる。男の掃討するかのような攻撃に、少年はやれやれと肩を竦め、さらに後方に後ずさる。そこを目掛けて、男はコンクリート片を撃ちこむ。一つ二つ三つ、と正確に少年の急所を狙う。
 男の脳裏で、四つのナイフが輝き始める。ナイフは一本一本がひとつの哲学で、それらは充分に研磨され、輝きは新たな可能性の示唆を意味している。男はナイフの輝きに従って、矛を大きく振りかぶってから、片足を前に踏み出して地面を踏みつける動作と、矛を振り下ろす動作を一致させる。
 大上段からの斬撃、そして震脚。
 頭の中のナイフが閃く。
 身体と矛と気。三つの要素が重なるのを感じていると、何かが男の中を行き渡り、指向性を持った波に変換され、矛の先から放射された。
 想像を絶する速度で何かが少年の頬のすぐ傍を駆け抜けた。
 つつつぅと少年の頬を血が伝う。
「おいおい、何だ今の、衝撃波か? こりゃあ第三拳を解放しても、敵わないんじゃねえの」
 小声でぼやき、右手の甲で頬の血を拭ってから、少年は地面を蹴った。
 男は少年の動きに合わせて矛を振り回してみた。面白いようにその先端から何かが飛び出す。何かは少年に向けて一直線に飛び、破壊の力を振りまく。
「まるで衝撃波のようだ」
 男は少年と同じ結論に達した。
 少年が近づいてくる。
 再び頭の中のナイフが輝きだした。それはコンクリート片と衝撃波に続く、今夜、三回目の輝きだった。男は高揚していた。強い相手と戦うことで、今までに育ててきた哲学が、花咲くような喜びを感じていた。
 感激の涙を流しながら、男はナイフの輝きに従って矛の石突きを地面に叩きつけた。
「――お、おおおおおおお!!!」
 先ほど、最初に衝撃波を放ったときよりも長い期間、何かが身体の中を巡り、そして今度は矛からではなく全身から放たれた。
 円形の壁が象られる。
 突っ込んできた少年は、男を中心に生成された、半径二メートルの円柱に触れ、吹っ飛んだ。
 壁はすぐに消えた。
 男は地面を見下ろした。
 少年が倒れている。その紅色のジャージは、無惨に切り裂かれ、彼は全身から細く血を流していた。その全てが壁による反撃とは思えなかった。きっと、男が気づかなかったうちに、衝撃波の何発かが命中していたのだろう。
「立ち上がれるか?」
 男は聞いた。
 一拍
 少年は答えた。
「ああ」
 さらに一拍。
 少年は宣言どおり、一挙で立ち上がった。
「見事だ」
 男は素直に少年を褒め称え、それから矛を構えた。男の頭の中では早くも今日、四度目となる輝きを、ナイフたちが発していた。


    ◆


 八神は男の懐に突っ込んだ。
 男は何か新しいことを試そうとしているようで、矛をしっかりと構えなおしていた。何か嫌な予感がしたが、厄介な遠距離攻撃や全方位防御をやられてしまう前に、決着をつけてしまおうと思いそのまま突っ込んだ。
 しかし残念ながら、八神の動きは瞬間だけ遅かった。
 男が八神の間合いに入り、その打撃を受ける瞬前、男の目付きが変わった。八神の並外れた動体視力はそれを見た。まず、自分自身に驚いているような驚きの表情、次いで八神を不審そうに見やる謎めいた表情、眼球だけを回して周囲の様子を観察し納得がいった落ち着いた表情、すべてを理解しそれでは始めようかという静かな表情、――――何も告げない無表情。
 まるで男だけが、時間の流れをゆっくりと感じているようだった。それほどまでに男の表情の変移は素早く、そしてこの直後に行われた動作も想像を絶するほどに素早かった。
 男の手の中の矛が光を超える速度で閃く――男の左胸に向けて突き出された八神の拳の先端が輪切りにされる、輪切りにされる、輪切りにされる。宙を舞う三枚のスライス。さらに閃く男の矛、手首を斬り離され、そこから肘までをまた七回も輪切りにされる。
 ここで、時間の流れが元通りになった。すなわち光が届き、この刹那という時間の中で何が行われたか、八神は知った
 右手が失われたことで、八神の攻撃は空振った。しかし、彼の表情には苦痛もなければ、戸惑いもなかった。
 八神は静かに告げた。

「右は義手だ」

 八神は無造作に左手を伸ばし、自分が輪切りにした腕が偽物であったことに驚いている男の手から矛を奪いとった。
 最強の矛を奪いとって、
 捨てた。
 地面に落ちた矛を拾おうと、男は身を屈める。そこを狙って、八神は男の胸を蹴り上げた。いつの間にか左手はポケットの中に収められている。武器を失った敵を相手に、右腕を失った八神は、余裕を放っていた。
 仰向けに倒れた男の胸の上に立ち、八神は敗者を見下ろす。
 男は恐怖に慄き、抵抗するために全身をジタバタさせようとしたが、人体の要所を踏まれているため身動きと言えるほどの身動きは、ほとんど取れていなかった。
 八神は全身の力を抜いて、上半身を前に傾け、立ち膝の姿勢を取った。
 ゴキリ。
 静かな、それでいて致命的な音が鳴る。
 八神の膝の下には、男の首根があり、その上にある男の口からは舌が突き出され、泡が零れていて、目は見開かれ、そしてそれは白く濁っていた。
 八神はそのまま三秒ほど静止してから立ち上がった。
 今、彼の中に新たなナイフが生まれようとしていた。
 それは全ての人殺しが心の中に持っている、哲学という名のナイフ。
 八神の中に新しく生まれたそれは、通産、三十一本目となるものだった。
「格が違えんだよ」
 吐き棄て、八神は振りかえった。最強の矛を回収するために。
 だがしかし、最前まで確かにそこに転がっていた矛は、見当たらなかった。
 視線を上転じれば、道の遠く先、暗がりの中の闇が、陽炎のように揺られていた。
 それはちょうど炎天下に点火したライターを、黒く塗り替えたようだった。
 誰かが、そこにいた。
 何者かが、そこにいた。
 おそらくはこの矛の最初の所持者が。
 最強の技からその最強性を抽出して最強の矛を作った。
 真の最強が、そこにいた。
 八神は唾を飲んだ。
 頭の中のナイフが、デタラメに暴れまわり、ガチャガチャと騒いだ。
「君は」
 声。
「いいね」
 最強の声。
「いいよ、格好いいよ。学校ではさぞかしもてるんだろうねえ」
 女性の声に聞こえた。
 老獪な、老婆の声に。
「でも。時おり、そういうのが煩わしくならないかい。すべてを滅ぼし尽くして、自分だけの世界を創造してみたいと思わないかい」
 声は問い掛けるような言葉を言ったが、その口調からも雰囲気からも、八神の答えを真剣に欲しているようには聞こえなかった。ただの戯れか。震える八神を弄ぶためだけに言葉を繋いでいるだけに聞こえた。
「この矛をあげてもいいんだよ。これがあれば、君の好きな娘を、君のものにすることもできるし、君の伯父さんを明日にでも越えることができる」
 八神は声に背を向けた。
「断わる」
 一言だけ残し、無防備に背中をさらして歩き去る。どうせ向かい合っていても、最強には敵いようがないからと、八神は自暴自棄になっていた。
「ハ、ハハハハハ。いいよ、君。すごい、いいよ。可愛いね、気にいったよ。これからも、よろしくね。ハハ、ハハハハッ」
 ボロボロになったジャージのまま帰宅する八神の背中を、哄笑はいつまでも追いかけてきた。


    ◆


 やがて夜が明ける。
 何人かのホームレスが、いなくなった仲間を探して公園を歩いたが、仲間はついぞ見つかることがなかった。
 その様子を、制服を着た八神が見ている。
 彼は公園の入口に佇んで、拳を握っている。
 固く握りしめられた拳から、幾筋かの透明な液体が零れ落ちた。
 手の中には、昨夜の男が持っていた四本の哲学があった。

 剥き出しのナイフが、疵付ける。

秋山真琴 [KIkzW-Tpvab-UKihK-eeObU] HomePage 2004/06/11(金) 06:55:59
[[]]

置き場の移動(執筆者専用):
PassWord: 移動先:

小説広場