神頌

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 神の言語で綴られた頌歌(しょうか)。その頌(うた)を自在に操ることの出来る存在。それは選ばれた人間であり、その力は王をもしのぐといわれるほど。しかし、魔法は衰退した。いまではスペルを唱えるものは絶えていた。だが、再びそれが必要とされる時代が来た。〈闇の王〉が復活してしまったのだ。唯一の対抗手段は〈頌〉、しかし、肝心の主人公はその頌の書かれた書物を読むことができない――。
 枚数は300ページほどを目安に。

蒼幻 [bjNkF-qOIte-oYcZY-hpTCf] Mail HomePage 2008/01/27(日) 11:01:38

第一章 神頌の力――覚醒するもの、失うもの
 

蒼幻 [bjNkF-qOIte-oYcZY-hpTCf] Mail HomePage 2008/01/27(日) 11:02:38

1 マイセルと頌との邂逅


 ここにはさまざまな知識が結集している。
〈王立図書館〉には十人の司書がいて、マイセル・グースはそのうちのひとりだ。
 蔵書数は百万超。この国で年間に刊行される書籍は三百がいいところだから、単純計算、三千年分の知識が保管されていることになる。しかし、物事はそう単純ではない。あくまで、この国ではということである。大陸にはイスハーク国以外にもさまざまな国があり、ここイスハークは大陸中でも小国中の小国、猫の額ほどの土地しか持たぬ弱小国と呼んで差しつかえないほどなのだ。
 百万冊の本のうち、市民が目にすることができるのは、比較的内容のやさしい流通本がほとんどで、魔術書とか呪いの書とかいわれる稀覯本やそれらを解説したような専門書は一般に公開されていない。それらを閲覧できるのは、たまにこの図書館にやってくる偉い学者先生や、魔術研究所の所員といったひと握りの人々だけだ。そこに勤める司書とはいえ、それらの本を目にする機会は限られている。
 その珍しい書籍がいま、マイセルの目の前に置かれている。それは数部屋ある保管室のなかの一室で、マイセルは館長に命ぜられた書籍の整理のために、この部屋に入ったのだったが、その生来の好奇心から、彼はその本の内容に心惹かれる自分を抑えられそうになかった。
 ――少しだけなら……。
 マイセルは好奇心に目を輝かせながら、しかし、わずかではあるが、後ろめたい気持ちも感じながら、陳列台に一冊だけ大切に置かれている書籍に手をのばした。
『真実の頌』。
 本の表紙にはそう書かれていた。
 革表紙に金文字。公用語ではなく、古代の高地イルメル語。
 マイセルは正式に高地イルメル語を学んだことはなかったが、本の題名に使われる言葉くらいは知っていた。瑁鶚瓩箸いγ姥譴脇颪靴ったが、いまでも、古めかしい詩をさすときに、高地イルメル語の瑁鶚瓩箸いΩ斥佞鬚修里泙淪僂い襪海箸あったので、本をよく読むマイセルはその言葉を知っていたのだった。瑁鶚瓩箸いΩ斥佞砲鷲垰弋弔蔑呂ある。それがマイセルのイメージだった。
 マイセルは誘惑にかられながら、その本のページをめくろうとした。そのとき、ふと、不思議なことに気づいた。この部屋は人の出入りがほとんどなく、一年をとおして閉めきられていることが多かったのだが、その影響か、部屋の隅には綿埃やら虫の死骸やらが多数散乱しているのだ。それは本棚のある壁際も同じだった。しかし、その『真実の頌』のおかれた陳列台の上だけは塵一つ落ちていないのだった。まるでそこだけが荘厳な空気に取り囲まれていたかのような、汚れを寄せつけない魔法でもかけられていたかのような印象。マイセルは怪訝に思いながらも、その思いを脇へ押しやり、まるで飢え死に寸前の者が食べ物に手をのばそうとしているときにように、時間のすぎるのも惜しいという感じで、表紙をめくるのだった。
 それは不思議な読書だった。
 書かれている内容はまったく理解できないのに、その高地イルメル語の字面だけが心に活写されるよう目に飛びこんでくる。マイセルは高地イルメル語を勉強しておかなかった自分を悔やんだ。しかし、後悔してもはじまらない。マイセルは読めないことを承知しながらも、わずかでも心にとどめようと文字を目で追いつつ、次のページ、またその次のページへと進んでいった。
 ――この本はいつ、だれが、どんな目的で書いたんだろう?
 マイセルは疑問を抱きながら、一書生になった気分で、時間を忘れて書物に没頭した。
 しばらくその疑問を夢見がちに考えていたのだったが、ふと、ページを繰る手がとまった。一瞬、細波が心に到来したのだ。それは書籍を見る自分の心に直接訴えかけてくる、大いなる存在からのメッセージのように思われる。
 マイセルはわからない文章の中に、意味のたどれる一節が潜んでいることに気づいた。マイセルはその箇所を何度も目で追った。

 黎明の刻、東の空に陽は昇りて、すべての悪を滅徐しつくす。そこには常に〈頌〉があった。〈真実を詠う者〉、闇より生ずる魔障を禦ぎ、なべての世界に聖なる光を齎すであろう。

 ――どうしてここだけ読めるんだ?
 マイセルはおどろいた。初めてみる語句だらけなのに、まるで自分が普段用いている言語のように、目に映ったその言葉は、直接、脳に語りかけてくるような具合だったのだ。マイセルにはそのメカニズムが理解できなかった。人知を超えた力が働いているような思いがした。しかし、たかが古い書籍の一節、と蔑む気持ちもあるにはあったのだ。
 マイセルはその後、自分のなすべきことは、この部屋の掃除だと、館長に命ぜられたことを思い出し、自分の職務に戻った。まず、締め切った窓を開けて空気を入れかえる。部屋の隅にたまった埃や虫の死骸を取り除き、乱雑にしまわれた書籍をカテゴリーごとに分類して整理しなおし、最後に、窓をすべて閉める。掃除はそれで終了。マイセルはその部屋を後にし、掃除の完了を告げるため、館長室に向かうことにした。
 しかし、マイセルはこのとき出会った書籍『真実の頌』が自身の運命をめまぐるしく変化させることにまだ気づいていなかった。

蒼幻 [bjNkF-qOIte-oYcZY-hpTCf] Mail HomePage 2008/01/27(日) 11:03:27



「なあ、マイセル。おまえ、いったい、これからどうするつもりなんだ?」
〈王立図書館〉の司書歴五年の頼りになる兄貴分セシル・マイオールが、酒を一気にあおるマイセルに訊ねてくる。セシルはマイセルより二歳年上で、透き通った青色の目と馬のたてがみのような赤い毛をした好青年だ。セシルは図書館司書という体力の有無とはほとんど関係のなさそうな職に就いていながら、頑丈な太い腕と足をしており、以前マイセルが聞いた話では、子供の頃から伯父さんにみっちり鍛えられたのだが、その伯父さんというのが王国内で開かれる武術大会では毎年決勝に残るほどの腕前を持っている人物であるらしかった。そのことから、セシルの腕前は推して知るべし。その将来有望な青年がどうして図書館司書を……とマイセルは疑問に思うのだが、そこには余人にはわからぬ事情があるらしい。マイセルは、多くを語らないセシルに不満を持ったが、それは他人が立ち入るべき問題ではないと思いなおし、今日まで訊かないでいた。それに、そのうち気が向いて、このような酒の席でぽつりぽつりと話してくれるだろうという淡い期待もあったのだ。
「図書館司書を勤め上げ、ゆくゆくは司書長くらいになって、この図書館の運営に携わりたいと思ってるよ」酔いの回りはじめたマイセルは、気分よく微笑みながら将来の希望を口にした。
 それを聞いたセシルは口元に意地の悪そうな笑みを浮かべながら、さらなる質問をした。「それはそうと結婚は考えているのか? 好きな人くらいいるんだろう?」
「いきなり何を言い出すんだよ?」マイセルは焦った。セシルの軽口が、酔いによるものであることは、顔を見なくても、彼がそれまでに飲み干したジョッキの数で見当がついた。
「ムキになるってことは……まさかまだ好きな娘もいないのか?」
「ほっといてくれ」マイセルは顔を真っ赤にした。マイセルには純情なところがあり、女の子と話すのは苦手だった。
「俺はてっきりフィーナとうまくやってるんじゃないかと思ってたんだがなあ」セシルの口調には、近所のおじさん連中とかわらぬ、余計な詮索が含まれていた。
 マイセルは照れ隠しにテーブルに置かれたグラスの赤ワインを一気にあおった。
 マイセルがふと傍らをみると、もう何杯目になるかわからないジョッキを手にとって中身を乾すセシルの姿があった。
 セシルはゆったりとした麻のベストを着ており、その下には開襟の白いシャツを合わせている。服装だけ見れば、いかにもインテリといった様子であるが、彼の腕や胸元の筋肉はその印象にそぐわない。
 それに較べると、マイセルの体格はまさに書生といった感じで、剣よりはペンによってたつきを得ているという印象が強い。マイセルが王立図書館の司書だといえば一般人にも信じてもらえそうだが、もしセシルが同じことをしたなら、その言葉を信じる者は十のうち一にも満たないだろう。
「どうしてフィーナの名前がここに出てくるんだよ」マイセルはセシルの鍛え抜かれた胸元の筋肉を眺めながら、言った。
「だって、フィーナとお前は相思相愛っていうもっぱらの噂だぞ」セシルは面白がるように口元をゆがめた。
 しかし、マイセルはそのセシルの言葉に喜びを感じるどころか、常日頃、フィーナという女性が自分には高嶺の花ではないかと感じていたために、素直に喜ぶことができないのだった。
「フィーナは僕のことをそれほど気にかけてくれてないよ」マイセルがそういうと、セシルはやれやれと言う風に首を振った。
「わかってないなぁ……」セシルがしっかりとマイセルの瞳を見つめる。「女ってもんは、そういうものなんだよ。自分の気持ちを素直に伝えたいという気持ちと、はしたない心のうちを相手に見られたくないという気持ちが仲良く同居している。もちろん、その女は葛藤というものを心の裡に生じさせるだろう。しかし――だ。女は本能的に自分を愛してくれる相手を求めるものだ。その相手が自分のどこでもいい、髪でも、瞳でも、鼻でも、唇でも、心でも。また、胸や足でも、そういったものを含めて自分を好きになってくれる異性を求めているんだ。でも、その気持ちが強いことを相手に知られたくない。その想いで、女は本能的に自分のことを好きになってくれる男が現れるまで、ひたすら硬い殻に閉じこもるんだ。その殻を融かすことができるのは、その娘を好きだという男の純粋な気持ちだけだ。この酒の席で明らかにできないような心情でしか愛せない相手なら諦めるんだな。そんな生半可な気持ちで恋なんてできないだろうよ。天空の宮殿に燈されている聖なる炎で自身の身を灼いて犠牲にするほどの心根がないかぎり、女は決して振り向いてくれないだろうよ」
 マイセルはセシルの言うことも一理ある、と感じた。しかし、あくまでも一理である。自分の秘めた思いを周りに明らかにしないからといって、その娘の心を振り向かせることができないとは思えない。それはしりごみでしかないと感じていた。
 ――それにしても、とマイセルは思う。
 セシルは天空の聖なる炎という比喩を用いた。
狎擦覆覬雖瓩箸いΩ斥佞法▲札轡襪録澄垢靴い發里魎兇犬箸辰討い燭、それだけではない、今日の昼間に見かけた『真実の頌』の中の狎擦覆觚瓩箸いΩ斥佞鮖廚そ个靴燭里澄それまでマイセルは自分が今日見た『真実の頌』のことを忘れかけていたのだが、その中の、かろうじて自分が読むことのできた一節が、頭の中ですでに形をとって血肉の一部になっていることに気づき、そうしてその浸透力に怖れを抱いた。
「今日、不思議な書物を見たんだ」マイセルがぽつっと口を開いた。
「ん? 書物?」セシルは頓狂な声をあげた。
「そう、一冊の……たぶん、魔導書だと思うんだけど……」
 セシルは興味深げに身を乗り出して、その次の言葉を待った。
「『真実の頌』という書物なんだけど……」
「『真実の頌』――。図書館の本か?」セシルは肩をすくめる。
「第三保管室の陳列台の上に置かれてたんだ」
「――第三保管室……」セシルは思い出そうと懸命に頭を働かせている様子。
 セシルはしばらく考え込んでいたが、やがて思い当たる節があるらしく、目を輝かせて口を開いた。
「金文字の、茶色の革表紙の装丁本だな?」
「そうそう」
 マイセルはセシルが知っていたことに驚きを覚えた。全部で二十ある保管室の中の書籍をある程度まで正確に把握しているセシルにとっては、『真実の頌』の名前もお手のものなのだろう。
「それで不思議というのは――?」セシルがさらにつっこんで訊ねてくる。
「そう、それなんだけど」マイセルは一度目を天井にやってから説明を続ける。「それがその書物――全部、高地イルメル語なんだ……」
「高地イルメル語……」セシルは何か荘厳なものに出会ったかのような口ぶりをした。
 無理もない。高地イルメル語はかつて歴史的支配権を持っていた魔導士集団が作成した呪詛用の言語だからだ。もっとも、成立当時はその魔導士集団〈イルメルの塔〉の専売特許の言語だったが、その後、狹祗瓩瞭睇抗争に巻き込まれ、野に下りるしかなくなった魔導士くずれがそのたつきをなりたたせようと、一般人に高地イルメル語を教えた。そのために世間に口伝されて広まったのだ。魔術は生まれもった資質がものをいうため、一般人がたとえ学んだイルメル語を用いて魔術を行なおうとしたところで、結局、何の力も引き出せないのだが、そのイルメル語は統制のとれた理知的な言語であったため、そのことがこの言語の一般への浸透を促進したと言えよう。しかしそれは千年以上も昔のことである。

蒼幻 [bjNkF-qOIte-oYcZY-hpTCf] Mail HomePage 2008/01/27(日) 11:04:24



 マイセルが読書を趣味にしていることはセシルも知っていた。頻繁にマイセルが最近読んだ本の話をセシルに持ちかけるからだ。セシル自身は図書館司書という職についていながら、あまり本を読まなかった。その代わり、記憶力が人より優れているために、どこのどの場所にどの本が置かれているかということを正確に把握しているのだった。
 しかし、高地イルメル語――。
 その言語で書かれた書物はほとんどが解読不能の難解本であるといわれていた。イルメル語はいわば選ばれた者が用いる言語であり、確かに一般にもその言語を扱える者が少数ながらいたのだが、彼ら、もしくは彼女らは少しかじったという程度で、それらを自在に操ることはできないのだった。しかし、その危険極まりない言霊とでもいうべき力をもった言語で書かれた書籍である。世の中には、書かれている内容はわからないが価値のある書籍というものが沢山ある。そして、高地イルメル語による書籍は、どれもたいへん高価な値で取引されていた。
「その中に気になる一節があったんだ」マイセルはどうして自分が顫えているのかわからなかった。
「うん? 内容?」セシルはとまどいの表情を浮かべる。
「うろおぼえだけど、内容はこうだよ」
 そのとき、酒場の扉が開かれ、ひとりの壮年の男が入ってきた。
 セシルはその男の方へ一度視線を投げてから、向かいのマイセルに集中した。
「――瑰嫐世旅錙東の空に陽は昇りて、すべての悪を滅徐しつくす。そこには常に〈頌〉があった。〈真実を詠う者〉、闇より生ずる魔障を禦ぎ、なべての世界に聖なる光を齎すであろう瓠
 ――……
 マイセルはセシルの反応を待った。
 しかし、セシルからの返事はない。セシルは押し黙ったまま、何かを考えている。
 マイセルはその間に、さっきこの店に入ってきた壮年の男が、着ているマントのフードも下ろさず、カウンター席について酒を注文している様子を眺めた。マイセルは不用意にその壮年の男を眺めていたのだが、その男はまるで後ろに目がついているかのように振り返り、マイセルを睨みつけた。まるで肉食獣のような獲物を射すくめる鋭い眼光。
 ――いけない。マイセルは慌てて視線を外す。
 身体は正面を向いたが、好奇心はまだ男の周囲をさまよっていた。
「あのカウンター前の男、怪しいな」セシルが眉間に皺をよせながら言った。
「あ……うん」とマイセル。
「それはそうと、そのイルメルの書だ」セシルは溜息まじりに続けた。「その本は俺の記憶の中にもはっきりと残ってるよ。『真実の頌』。確かに、そんな名前だった。もっとも、俺はイルメル語なんてわからないから、学者先生の知識に頼ってのことだったんだがな……。しかし、マイセル! その本の内容をどうして知ったんだ? おまえ、イルメル語はマスターしてないんだろ……なのにどうして」
 セシルはマイセルの反応をみるために、ここで言葉をきった。マイセルはどぎまぎした。
 ――たしかにそうだ、僕はどうしてあの本の内容がわかったんだ?
 ややあって、「わからないよ」と肩をすくめるマイセル。
「イルメル語の文章を読むには最低でも五年の修練が必要とされている。しかも、イルメル語を教えられる人物は年々減少しているし、大抵は教えるといっても魔導書を読みこむほどの知識は望めない。魔導士とか呪術士とか歴史家とか、その中でも、特にすぐれた知識を有した者しかイルメルの言葉は扱えないはずさ」
「そうなんだけど……」
「ふっ、何かの見まちがいじゃないのか? 幼児が大人向けの本を読むようなものさ。字面だけ眺めて知っている単語のみを拾い、自分の中で文章を組み立てる。そうじゃないのか?」セシルは怪訝そうな目つきでマイセルを見つめた。
「それが不思議なんだ。その箇所だけ、まるで浮かび上がるかのように直接僕の脳に作用したと思われて、気がついたら読めるようになっていた。魔術なんじゃないかな?」
「魔術!?」
 セシルの頓狂な声がマイセルの機嫌をそこねる。
「そんな都合の良い魔術なんてないぞ」
「ん〜」
「どうして読めたんだろうな? 『真実の頌』か……謎だな」
 そのとき、カウンター席に座っていた男が振りかえってマイセルたちを睨みつけるようにして席を立った。どうするのだろうとマイセルは様子を眺めていたのだが、男はすたすたと二人の席に近づいてきて、やがて口を開いた。
「いま『真実の頌』という言葉を耳にしたのだが――」
「はい、確かにその本のことを話していました」とセシル。物怖じしない態度だ。
 男の目がぎろっと光る。
 マイセルは男の姿、顔かたちを改めて見る機会を得た。
 男はまるで鷹のような鋭い表情をしており、年齢を感じさせる目元の皺が印象的だった。年は五十歳程度、マントはくるぶしまでの長いもので、色合いは夕闇のなかの影のような濃い灰色。持っている荷物は頭陀袋ひとつ。何が入ってるかはまったく見当がつかない。
「本? 『真実の頌』とは本なのか?」男は疑問を口にした。
「ええ、僕たちは〈王立図書館〉に勤務する司書です。蔵書の中に、その本が含まれてるんです」
「ほう……なかなか。わしの知っておる『頌』はpower spellと呼ばれる歌のごときものでな……。わしは使えんが、なんでも言霊を支配することのできる言葉であるらしい」
「へぇ〜」マイセルが感心する。
「で、いったい、その、『真実の頌』がどうしたんだね?」

蒼幻 [bjNkF-qOIte-oYcZY-hpTCf] Mail HomePage 2008/01/27(日) 11:04:54



 自分の正体も明かさず質問ばかりしてくるこの男に、セシルは警戒心を強めた。それに気づいた男は自己紹介をはじめた。
「わしはロギヌス。いちおう、肩書きは歴史家ということになっておる。ここ数年は大陸各国をまわって地域の伝承やら歴史やらを蒐集しておってな。〈王立図書館〉はわしの目的地のひとつでもある」
「へぇ〜。歴史家……」セシルが軽口をたたく。
「ここでイスハークとその周囲の歴史を語るのもいいが、子守唄になりそうな気がするから遠慮しておこう。それで、瑁鶚瓩砲浪燭書かれておったんじゃな?」
 マイセルは今日、自分が昼間に見たイルメル語の書物の一節をロギヌスに説明した。
「狄深造魃咾者瓩……とうに、昔話の季節は過ぎ去ったものと思っておったが」ロギヌスはかぶっているフードをとって、顔をあらわにした。
 マイセルは狄深造魃咾者瓩箸呂燭世糧耜班集修世隼廚辰討い拭しかし、ロギヌスの、その言葉を識っているような口ぶりに、なにか自分の知らない真実が聞けるのではないかとの期待を込めたまなざしを向けた。
「〈真実を詠う者〉、別名the singer of the true spell。これは伝承の中だけの話ではない。真実を詠う者は実在する。ただ、その能力の特殊性のため、歴史の影に隠れてしまっているような状況なのだ。もっとも、〈真実を詠う者〉と呼ばれるには、魔力を受けつぐ人々の子孫であることが必須条件だ。血筋の賤しい者にスペルは唱えられん。その辺りは〈イルメルの塔〉の魔導士の資格に似たところがあるだろう」
「なんでも血統か……。まるで闘鶏みたいな感じだな」セシルの軽口は止まらない。
「血は大切じゃよ、若者よ」ロギヌスは青い目をぎろっと光らせた。「しかし、その一節は厄介だな。謎の多い文章はまるで予言のような格調だし、本自体は禁書といってもいいほどの叙述がなされておるようだ」
 そのテーブルに落ち着いたロギヌスのために、年頃の女給仕が改めてビールのジョッキを持ってきた。
「わしはウイスキーのほうが好きなんだがな……」ロギヌスは不満をぶつける。
 マイセルは店内を見まわしてみた。
 カウンターは頑丈な樫の木でできており、正面の棚にはワインやウイスキーのボトルがところせましと並べられている。ビールは樽で保管されている。たとえいま百人の軍人が店を占拠したとしても、充分にまかなえるだけの酒量が店にはストックされていた。
 客はマイセルたちを含めて四組。客のたてる音や話し声が酒場の喧騒をつくっている。
「明日、わしをその〈王立図書館〉に連れて行ってもらえんかな?」ロギヌスは柔らかい表情で二人に頼んだ。
「いいですよ、それくらいなら」マイセルが気軽に請合う。
「そうだな、それくらいなら俺も手伝おう」セシルは肩をすくめた。
「で、ロギヌスさんは、今日はどこに泊まられるんです?」とマイセル。
「この酒場の隣に宿屋があるんでな。そこで休ませてもらうよ」
「そうですか、でしたら、明日の朝、迎えに来ますね」
「そうしてくれると助かる」ロギヌスは微笑んだ。
「じゃ、今日はこの辺りで――」マイセルは勘定を払おうと懐から財布を取り出した。
 席を立ってカウンター前へ行き、店の主人に銀貨一枚を渡して、かわりに銅貨十四枚を受け取る。銀貨は銅貨の二十倍の価値があるから、今夜の飲み代は銅貨六枚ということになる。ひとりあたま銅貨三枚。今日はマイセルが全額を支払う日だった。
「それじゃ、これで――」ひとりロギヌスを残して、二人は酒場を出る。
 もうすっかり暗くなった外では街燈がともされており、影がゆったりとうごめいていた。
 蛾や羽虫、こうもりといった生物の、街燈にあつまるながめは気分のよいものではなかったが、それが何かの隠喩になっており、彼らにこれから災難が降りかかるなんてことはないと言いたいところだ。



 マイセルがセシルと連れ立って帰り道を急いでいると、セシルが急に陽気になった。
「おい、マイセル。これからフィーナの家にいって、告白したらどうだ?」セシルは完全に酔っている。
 マイセルは困惑した顔つきで傍らの先輩を眺めた。確かに仕事中は頼りになる先輩だけど、ことプライベートに関しては、プライバシーなんで考えてくれない横暴な人だった。それでも一緒に酒を飲むのは、いくら彼が酔っ払って羽目を外そうとも、それを補って余りあるだけの信頼感を、彼はセシルに寄せていたからだった。
「ちょっと、もう酔ってますよ、先輩。今日はこれくらいでよしておとなしく家へ帰りましょう。さあ、送りますから」マイセルはふらつくセシルの身体を支えようと、彼の腰に手を回した。
 セシルがふらふらだったため、普通五分で到着するはずの彼の家に辿り着くのに半時間もかかってしまった。セシルは自分の家の玄関を観ると、いっそう陽気になって、「いま帰ったぞ!」と家族に聞こえるように大声でどなった。
 しばらくするとひとりの若い女性が玄関扉を開けて姿を現した。「兄さん、また飲んでるのね」開口一番、とがめるような口ぶりだ。
「ああ、リナ。なかなかないぞ、こんなに気持ちよく酒を飲める日は……」セシルはそういうと玄関前でぐったりして座り込んでしまった。
「ちょっと……こんなところで眠らないでよ」リナと呼ばれたセシルの妹は、兄をなんとか起こそうと、しゃがみこんで、彼の身体をゆすった。

蒼幻 [bjNkF-qOIte-oYcZY-hpTCf] Mail HomePage 2008/01/27(日) 11:05:31



「僕が運びましょう」マイセルはリナに微笑んだ。
 セシルの身体を運ぶのはたいへんだったが、時間をかけて説得すると、セシルは身体をふらつかせながらも前へと進んでいった。
 マイセルはセシルの家の中に入るのは初めてだった。まだ建てられて比較的新しいにちがいない、壁は漆喰塗りで黒い柱がところどころ見え隠れしている今風のつくり。平凡な家屋というよりも、洗練され、細かな配慮のなされた建物という印象が強かった。マイセルは以前に、セシルの家族は郊外に住んでいたという話を聞いたことがあった。郊外というよりもむしろスラム街。日々の生活にあくせくしている人々の集まる秩序なき街スラム。その街では道徳観念や一般常識はいっさい通用せず、中流家庭よりも下の人間がうごめく、はきだめのような場所だと世間ではささやかれていた。
 昔はどうであれ、いまは、ここでつつましやかな生活を送っているわけだ。マイセルは表情を変えずに、自身で納得した。
 セシルの両親は、彼が仕事の同僚を連れてきたのが嬉しかったのか、食事をしていくように勧めた。しかし、マイセルはその申し出を丁重にことわった。
 セシルを居間に寝かせると、マイセルはほっと安心し、それから、今日は帰ります、とセシルの両親に告げた。
「そう、残念ね」とセシルの母親が顔をくもらせた。
 マイセルはこの家を出る前に、もう一度、リナの顔を観た。画家が細心の注意をはらって画布に描いたように整った顔。確かに観る人を惹きつける美しい顔だ。でも、自分には彼女と愉しんで会話するための精神的余裕がない、とマイセルは感じていた。
「玄関まで送るわ」とリナが申し出た。
 帰ろうと居間の扉を開こうとしていたマイセルは、ふと、その手を止めた。そして後ろを振り返ると、「いえ、ここでいいですよ」と遠慮するように告げた。
「それはいけません」リナは凛とした口調でマイセルにいった。
「そうですか……では玄関まで」とマイセルが折れる。
 リナの口調は凛としたものだったが、マイセルにはそれが嬉しかった。確かに、この部屋で別れの挨拶を済ませればそれでいいと思っていたけれど、ここで別れるのと、玄関まで出てきて挨拶を受けるのとでは格段の差がある。普段、自分はそんなことにこだわらないのに、今日に限って、いや、リナという存在だからこそ、という気持ちが働いていたのは、マイセルにも信じられないことだった。もちろん、そこにはセシルの妹だという親近感もあるにはあったのだが、生来、女性と口を聞くことを苦手にしてきたマイセルには、その感情はあまりにも意外なものであったのだ。
 マイセルとリナは家の前の道に出ると、そこで別れの挨拶を交わした。
 そして夜の闇で見えなくなるまで、マイセルはたびたびふりかえりながら手を振った。
 マイセルは自分の家に向かう道すがら、先程のリナのことを思い、気分が上向くのを感じていた。
 ――リナか……なかなか活発そうな人だったな、とマイセルは考えた。
 しかし、
 ――それにしても……とマイセルは考える。
 酒場でであった灰色フードの男性。彼はいったい何者なのだろう? 確かに自分たちには歴史家だと名乗ったが、どうもそれだけではない雰囲気が全身から滲み出ていた。なにか、人を食ったような印象。いや、ちがうな……一歩はなれたところから人生を眺めているような、余裕のある態度、もしくは諦念。そうだ、そんな感じだ、とマイセルは思った。
 ロギヌス――彼はそう名乗った。
 大陸でも珍しい名だ、とマイセルは感じていた。なにか神話にでも出てきそうな名前で、現代的ではない気がする。もしかして、偽名? と思ったが、それならばどうして偽名を使わなければならないのか、その理由が定かでない。マイセルはそれ以上、自分にこの問いを解くための鍵が与えられていないのを実感した。
 いろいろ考えているうちに自宅の前についた。家では父と母が待っているはずだ。マイセルは家の玄関の前のベルを鳴らすと、そのまま扉を開けて中へと入っていった。



 家に着いたマイセルはひとり掛けのソファに腰をおろした。
「遅かったのね……仕事が忙しかったのかしら?」マイセルの母ロアンナが台所から声をかける。
 父のホリックは向かいのソファに座り、おそらく今日買ってきたのだろう、インテリアの雑誌を読んでいた。
「セシルっていう先輩の家まで行ってきたんだ」とマイセルが元気に告げると、母ロアンナは鍋をかき混ぜるのをやめて、嬉そうに表情を緩めた。
「あら、そうなの? で、今日はどうだったの? お仕事ははかどった?」
「んー、そんなはかどるとかはかどらないとか、そういう仕事じゃないんだ。書棚の整理をして、利用者に本を貸し出して、在庫管理をして、万事滞りなく進める。それだけの仕事なんだよ。書棚にどんな本を埋めるかっていう実際的なプランはすべて上が決めるんだからさ。僕たち下っ端はいろいろと突発的に沸き起こる雑務を的確にこなしていくだけさ。早く一人前になって司書長くらいにはなりたいと思ってるんだけどね」マイセルはもう何度目になるか分からない説明を血のつながらない母親に告げた。
 血のつながりがないのは向かいに座る父も同じだった。
 マイセルはまだ赤子の頃、人通りの少ない教会の前の道に捨てられていた。それを見つけた教会の神父が健気に思って、彼を引き取り育てることにした。しかし、教会自体もそう裕福ではなかった。もちろん信者からの献金などもあったのだが、神父は敬虔な人物で、貰った喜捨の金はすべて恵まれない人々のために用いるのだった。そして、手元に残るのは自分が最低限の生活を送るために必要なわずかばかりの金額のみという状況だった。その状況を察したいまの両親が、それならば子供のできない自分たちにその子を育てさせてほしいと頼んだのだった。そうして、マイセルは五歳のときに、現在の両親、ホリックとロアンナに引き取られた。
 マイセルは大切に育てられて、十歳になる頃にはイスハークの公用語をほとんどマスターし、難しい計算もこなせるようになって、将来は学者になれるんじゃないかと、学校を含む世間の噂の的になっていた。しかし、彼はいつのまにか読書に耽るようになり、自分とは何か? というような問いを常に考えるような青年へと成長してしまい、そこからはほとんど他者と交流を持たない性格の人間になってしまったのだ。本が友達。そのような思いを抱きながら、それが逃げの思考であることに気づかないまま、十六歳まで成長した。

蒼幻 [bjNkF-qOIte-oYcZY-hpTCf] Mail HomePage 2008/01/27(日) 11:06:03



 十六になったマイセルは自分が何をしたいのかという将来的ビジョンをなにも持っていないことに気づいた。趣味といっては本を読むことと、音楽を聴くことくらい。本を読むことが好きなのはひとつの才能と呼べるほどだったが、そのときの彼には、その趣味を何に活かせばよいやらまったくわからなかった。一時、作家になるという考えも持ったことがあったが、しかし、書くことが見つからないという理由ですぐに断念してしまった。もうひとつの趣味、音楽を聴くことにしても、何もすることのない休日、少し大きめの市内の公園に素人音楽家がトランペットやらフルートやらバイオリンをひいているのを聴きにいく程度だった。青年マイセルは悩んだ。世の中には働いている大人は大勢いて、職業はさまざまあるのに、自分はそのうちの何にも向かないのではないかと思う無力感。マイセルはさんざん悩んだ挙句、初心に立ち返った。本が好きなんだから、本に囲まれる仕事を……。そうしてマイセルはダメもとだと思いながら、〈王立図書館〉の新規採用試験を受けたのだった。
 もともと頭脳明晰だったマイセルは、試験の出来もよく、首席で試験に合格した。同期で入ったのは三人。試験を受けたのは五十人ほどだったので、これに合格したマイセルは優秀だったといえよう。
〈王立図書館〉勤務が決まったとき、父と母は自分のことのように喜んでくれた。常日頃、マイセルが部屋に閉じこもって本ばかり読み耽っているのを咎めることもせず容認していた父ホリック。どう声をかけてよいやら分からず逡巡していた母ロアンナ。マイセルに対して遠慮しているのは明らかだったが、マイセルは、それが、自分が彼らの本当の子供ではないからだ、と思い込んでいたのだった。しかし、職場が決まったことは両親にとっても喜ばしいことだったらしく、普段、あまり口を開かないホリックも温かくて優しい祝福のことばをかけてくれたのだった。
 それからマイセルは改心したように素直で従順な性格になっていき、仕事もこれこそが天職と思いなすようになったのだった。狒把召能晶腓弊格瓩箸いΔ里蓮△發箸發箸修料巴呂マイセルにはあったということだろう。これまでの人生ではその素直で従順な性格というのは周りからプレッシャーを受けてねじまがっていたようなのだ。しかし、〈王立図書館〉という職場を見つけたマイセルは、なんとか自分をそこにまにあうような人間になろうと思い立ったのだった。そしてその努力こそが、彼の先天的な性格を表に導いたのであろう。
「ねえ、父さん」
 マイセルは雑誌を読んでいる父に向かって声をかけた。
「うん、どうした?」ホリックはページに付箋を貼り付けて、雑誌を閉じる。
「ちょっと気になることがあるんだ……」マイセルはおそるおそる話を切りだした。「あの僕が捨てられていた教会、そこで僕は育ったのはわかるんだけど、いったいどうして僕を引き取ろうと思ったの?」
 マイセルはこんな質問をするのははじめてだった。もし否定的な、あるいは消極的な返答が返ってきたらどうしようという気持ちに邪魔されて、訊くに訊けなかったのだ。
「んー……実はな……」ホリックはひとつ深呼吸してから話しはじめた。
「――それはその年の初めの、雪が降った夜のことだ。外は寒くて凍えそうな気温だったんだが、わしも母さんも布団のなかに湯たんぽをいれて、暖をとりながら眠ったんだ。そして、その夜、わしらは夢をみた。それはこんな風だ。なにか危ういという気持ちが先に立った。そしてたったいま眠ったばかりなのにどうして外にいるんだと思っていたところに、第一の印象が到来した。それは血のように真っ赤に染まった空だった。いまは戦時中で、どこもかしこも逃げ惑う人々でいっぱい。どこか閉塞的な世間に絶望感を覚えているような感覚だけが頭の中をめぐっていた。自分に何ができるんだろう、と思った。そして、その思いを昇華するために、わしは単身、街の中心部にある教会跡地に向かった。それはもう壁もぼろぼろに崩れてしまっているような建物だったんだが、その中の本尊である神像だけは誰が手入れしているのか、その戦時下にあってもこうごうしく輝いていたんだ。わしはその像の前にひざまずき、祈りの言葉を述べた。こう見えても、昔は教会の敬虔な信徒のひとりだったんだ。もっとも、いまではそんな思いも消し飛んでしまったがね」ホリックは目じりに皺をよせ、力なく微笑んだ。そして続ける。「それで教会の神像の前で祈りを捧げ終え、帰ろうとしたときに子供の泣き声が聞こえてきた。わしにはその泣き声がどこからするのか、わからなかった。しかし、すぐ近くだ、という直感だけはあった。そこで、いろいろと捜してみたんだが、その子供は神像の裏にいたんだ。わしはそのとき、その子供の顔をしっかりとみた。そして、家に連れ帰ってその子の世話をしなきゃならん、という気持ちになっていた。この子は普通じゃない、そうわしの本能が告げていた。いまから思えば不思議なことだったんだが、そのとき、第二の印象が到来した。そこから場面は一気に切り替わる。いまよりももう少し文化の進んだ世界にわしはいた。それは街を一望できる丘の上だったんだが、わしはそんな風景、これまでに一度も見たことがない。それに、この首都イスハークの周囲に丘なんてないしな……。だからそれは、きっとここではない他の街か、それとも夢が作り上げた空想の産物かもしれないな。そんなことはどうでもいい。話の核心はこれだ。気がつくと、隣にひとりの青年が立っていた。それは他人ではなく、あの崩れかけた教会で見つけた子供の成長した姿だとわしは直感した。その青年がなにか意味は分からないけど、美しい声で歌い始めると、鳥たちがやってきて、彼の頭上をめぐるんだ。そして心地よい風が吹き、雲間からのぞく太陽が万物を化育する光を地上にふりそそぐ。それは一幅の絵画的光景だったよ。わしはしばらくその青年の歌声に聴き入っていた。何語なのかあいかわらずわからなかったが、そんなことは関係ない。わしは言葉の持つ美しさにひかれていた。人の声がここまで他人の心を魅了するなんて……そんなことを考えるうちにまた場面は転換し、第三の印象が到来した。わしはひとりの男に命を狙われていた。そんな危機的状況でまたも青年が姿をあらわす。今度は眉間に皺をよせたつらそうな表情だった。わしはその表情からこの青年が冷たい怒りを心に宿していることを知った。そして青年はまたも歌いはじめる。あの春の日の丘の歌とちがって、今度は心の深奥にともる信念のようなものを前面に押し出す印象の歌だった――」ホリックはそこで少し言葉をきった。
 すぐさま、マイセルが質問をする。「で、この話は僕の身柄の引き取りとどういう関係があるの?」
 ホリックはすぐさま返答することはせず、自分の話を先に聴くようにと促す態度を示した。
「――で、その青年は歌を歌い、わしの命を狙っていた男の殺意を喪失させた。それ以上、不幸なことは起こらなかったが、それでも、歌というものが人の心に及ぼす影響の大きさを感じさせる事例であったことはたしかだ。そして、その青年――いや、子供こそ、他でもない、お前だったんだ」

蒼幻 [bjNkF-qOIte-oYcZY-hpTCf] Mail HomePage 2008/01/27(日) 11:06:31



「えっ?」マイセルは意外そうに表情をゆがめた。
「そういうことだ」ホリックは落ち着いた口調でいった。「目覚めたとき、その夢は他の夢とちがって、いつまでも心の奥に印象の残るものだった。そして傍らに眠るロアンナも同じように目覚めて、ふしぎな夢を観たといったんだ。わしは予感したよ。きっと母さんも同じ夢を観たんだろう、ってな。話してみると、案の定、そうだった。そこでこれは何かの天啓じゃないかと感じ、わしらは街の教会へと足を運んだ。それまでにときどき、日曜礼拝などでお前の存在を見かけることがあったから、夢の中に出てきた少年はおまえだとわかっていたんだ。そして、その日、神父と一緒に神像の前で祈りを捧げているお前を観て、直感的に――そう、一種のひらめきだな――お前を引き取って育てようという気持ちが、自分の心に結晶したんだ。教会の神父は優れた人物だと云うことは、日曜礼拝での法話を聴いても明らかなことだった。しかし、引き取ったとはいえ、お前に満足に食事もさせていないことは、お前のやせ細ったからだを見れば、明らかだった。これではいけないと思ったんだな。わしはすでにその夢でおまえの未来の姿も知っていた。だから、自分たちがお前を引き取って育てれば、きっとすべてがうまくいくだろうという確信があったんだ。だから、わしらはお前を引き取ろうと、神父に提案した。はじめ神父は警戒していた様子だったが、やがて、わしらの心根の正しさを知るにつけ、これは神の慈悲だといわれ、賛同された。わしらは難しいことはわからないが、この子を慈しんで育てようという約束を神父と交わした。それで、お前がこの家に来たってわけだ。どうだ、納得できたか?」ホリックは血のつながらない息子マイセルに自分の気持ちが通じているのか確かめるように、少し怪訝そうな目つきをしながら、様子を見守った。
「そう――」マイセルはもうひとつの疑問を心に抱いていたが、いいだすべきかどうか迷っていた。
「その顔つきでは他にもなにか知りたいことがあるようだな?」ホリックは肩をすくめて表情をゆるめた。
「その――あの――」マイセルは逡巡していた。そして決意する。「父さんの夢の中で、僕に似た青年が歌を歌っていたっていったね」
「ああ、いったとも」ホリックはきょとんとした目つきをした。息子が何を言おうとしているのか、量りかねるという表情だった。
「その歌ってどんな歌だったの?」マイセルはそれが重要なことだとでもいうように、こだわりを見せた。
「んー、いまでは記憶が薄れてしまってるからな……もう、十五年以上も昔だからな……。でも、なんとなく覚えてるのは、その歌の文句は古語に近いものだったように思う。昔から連綿と受けつがれてきたものであるような……。意味はとれないけど、どこか心に入り込んでくるような印象があったな……」
「父さんって、高地イルメル語は知ってたっけ?」マイセルは名案でも思いついたかのような表情で父に訊ねた。
「子供の頃、吟遊詩人を職業にしているケトルって男に基礎的なことを二三、教わったくらいだが――それがどうかしたのか?」
「ううん、なんでもないんだ。ただ、その歌は高地イルメル語だったんじゃないか、って思ってね」
「んー、そういわれればそうかもしれないとしかいえない。わしは高地イルメル語の発音を知らんしな」
「そっか……」
「母さんはどうだ? 知ってるか?」ホリックは助けを求めるように妻に話をふった。
「いえ、わたしも知りませんよ。ただ、なんだか美しい歌だなって思った印象だけは残ってるかしら……。そう、物語に出てくるpower spellみたいな感じね。なんだか、魔術でも使ってるような印象」
 ――power spell! あの歴史家ロギヌスが口にした『頌』という言葉……。
 マイセルは、すべてが一本でつながった気がした。図書館で見た『真実の頌』――power spell――〈真実を詠う者〉。しかし、父の話が本当なら、その歌を歌う者はこの自分ということになる。歌を歌うなんてこれまでの人生の中で一度もなかったマイセルには、それが突拍子もないことのように思われた。それに、その歌が高地イルメル語で出来たものだとしたら、いったい、誰がその歌を解読することができるだろうか? 歌には言霊が宿っているらしい。しかし、その歌の力を十分に発揮するには、魔術的素地がないといけないだろう。あのロギヌスはいった。魔術を扱うには、血筋が大切だと。自分には頼りにするだけの血統がない。というよりむしろ、実の両親の手掛かりがまったくない。そんな状態で、自分が高地イルメル語の歌を使いこなせるとはとうてい思えない。そんなことを考えているうちに、マイセルは、理想と現実のあまりのギャップに打ちのめされそうになった。
 ――もう風呂に入って寝よう。
 マイセルはクローゼットから着替えを取り出すと、風呂に入ることにした。
 風呂からあがったマイセルは、父と母におやすみの挨拶をしてから、自分の部屋に引っ込んだ。マイセルの部屋は二階の階段を昇った突き当たりにあった。
 部屋に入ると眠るには少し時間が早すぎると思い、ロウソクに火をつけ、書棚の中から一冊の本を取り出した。題名は『悪魔のささやき』。中身は昨今はやりのロマンス小説で、空想小説と呼ばれることもある。もうページの三分の二ほどを読み終えており、もうすぐクライマックスというところまで読み進めてきていた。マイセルはベッドに倒れこむようにうつぶせになると、顔だけ上げて本を開いた。読書の時間は蜜のように過ぎていった。
 そして若干の眠気がマイセルの頭に覆いかぶさってきたころ、あと数十ページとなった本を閉じ、部屋の隅にある燭台のロウソクの炎を吹き消して眠りについた。
 さまざまなことが頭と心に去来した。――頌――スペル――真実――闇。
 しかし、整理がつかないままに、マイセルは眠りへとおちていったのである。

蒼幻 [bjNkF-qOIte-oYcZY-hpTCf] Mail HomePage 2008/01/27(日) 11:07:00

2 古の血の伝承


 歴史家には大きくわけて三つのタイプがあるらしい。
 第一が、時間の流れを等間隔に分断し、それらを個別に、詳細な歴史を調べようとする学者タイプ。第二が、ある特定の人物に惹かれ、その人物の生涯をとことん調べつくそうとする伝記作家タイプ。そして、最後に、伝承や民族の歴史をその根源に遡って、物事の道理を正しい方向に導こうとする哲学者タイプ。自分はその第三のタイプにあたる。ロギヌスによる説明は以上のようなものであった。
 マイセルとセシル、そしてロギヌスは、〈王立図書館〉の本館にいた。図書館に向かう道すがら、ロギヌスに歴史家のことを訊ねたのは好奇心旺盛なマイセルだった。そして、セシルもその言葉に惹かれたのか、ロギヌスの話に熱心に耳を傾ける風だったのだ。
「ほう、噂にたがわぬ、立派な建物だな」
 それがロギヌスの図書館を見ての第一声だった。
「そりゃそうですよ、イスハークの〈王立図書館〉といえば、さまざざまな稀覯本が保管されてあって、国自体が文化の興隆を支持しているから、国の援助を受けて近隣の国々、もしくは遠方の国々の作品まで蒐集することができるわけですし。そんな風に知識に貪欲でいることが、この〈王立図書館〉を他に類を見ない、文化的財産の結集とまで呼ばれるほどにしたんですから」マイセルはまるで自分の長所を語るかのように、この稀有な建物を自慢した。
「ふむ……このようなところだからこそ、『真実の頌』も得ることが出来たんだろう」ロギヌスはふしぎな感心の仕方をした。
 しかし、その言葉から、彼の関心は『真実の頌』にこそあるのだということがはっきりした。
 マイセルとセシル、二人の司書は、司書長のひとりであるユービックのもとにロギヌスを連れて行き、稀覯本が多数安置されている保管庫に立ち入る許可を得ようとした。ユービックは図書館に入れる新刊本のピックアップをしていたらしく、書類とにらめっこしながら、表にチェックを入れている最中だった。
 司書長ユービックは、司書二人が連れてきた歴史家にうろんげな視線を投げかけたのだったが、すぐにロギヌスを客人としてもてなすような態度を見せはじめた。先に、稀覯本を目にすることができるのは学者先生や、魔術研究所所員くらいのものだと書いていたが、もちろん、歴史家も学者先生のなかにふくまれる。マイセルは直属の上司であるユービックがほとんどなんの疑念もいだかずに、ロギヌスを歴史家と認めたことに、信じられないという気持ちをもった。
 ユービックはマイセルとセシルが歴史家と知り合った経緯を知りたがったが、セシルが気のない返事をしながら、酒場で出会った話をしてユービックの関心をそいだのだった。
「うちの図書館には二十の保管庫があり、そのうちの三つ目にお探しの本はあるでしょう」ユービックが丁寧に説明しながら、保管庫に続く廊下を歩きだした。
 ロギヌスは始終無言だったが、何事か考えている様子は見てとれた。
 マイセルが昨日掃除を済ませた部屋、第三保管室の扉がユービックによって開かれた。そして、マイセルが昨日観たところに安置されている稀覯本『真実の頌』を指差して、ロギヌスに知らせた。
 ロギヌスは大股に部屋を横切ると、陳列台の上に置かれている本の前まで進み、そして顫える手でその本を持ち上げた。
 ロギヌスの手が顫えているのはどうしてだろう、昨日、あれから酒を飲みすぎたのだろうかと邪推してしまうマイセルだったが、どうやらそういうことではないらしいということに気づいた。どうも、本を手にしたことに対して感動を覚えているような様子なのだ。ロギヌスは何度も表紙に目を遣り、「そうそう」とか、「これだ」とか、ひとりごとをいった。
「この本のこと、ご存知なんですか?」とユービックが丁重な印象のある雰囲気で質問をした。
「ああ、知っておる。知っておるとも。これは超一級品の魔術書じゃよ」ロギヌスは目じりに皺をよせた。満足げな表情だ。
「へー、でも、観たところ、これは高地イルメル語の書物ですね。読めるんですか?」とユービック。
「いや、読めんよ。でも、何が書いてあるかは大体分かる」
 マイセルはロギヌスが強がっているのではないかと感じた。本当は読めないし、意味もわからないし、書いている内容も知らないのではないかという印象を強くする。しかし、それは正確ではなかった。どうやらロギヌスは本当に、何が書かれているのか、知っているらしい。そして、彼はページを繰り、昨日、マイセルが口にした一節が書かれているページをひらき、「これじゃな」といってマイセルに示したのだから。
「そうです、それです」とマイセルは返事した。
 マイセルはその言葉が頌歌の形式をとっていることに気づいた。ロギヌスが口に出して発音していた言葉を聴き、そう感じたのだった。本能が告げていた。これは歌である。つまり、父が昔観た夢に出てきた青年が歌っていた歌こそ、この頌にちがいない、と。
 しかし、納得いかなかった。歌はすべてを統べるものという風に、父ホリックの夢は徹底していた。しかし、いま、目の前でロギヌスが歌った歌は、なんというか、本当のところ、心に響くもののまったくない棒読みといってもさしつかえないような無表情の歌にすぎなかった。マイセルは少し悩んだ。
「どうしたんだ、マイセル?」黙りこくったマイセルにセシルが声をかける。
「いや、なんでもないんだ」とマイセル。
「ふむ……」ロギヌスは高地イルメル語の書物のページを繰りながら、マイセルの顔と交互に見比べた。
「どうかしましたか?」セシルはその表情に戸惑いを浮かべながら、ロギヌスのほうを観た。
「いや、もしかして、と思ってな」ロギヌスが含みのあるいいかたをする。
「何がですか?」自分の顔を見られているをはっきり悟ったマイセルは、怪訝そうな面持ちでロギヌスに訊ねる。
「いや、高地イルメル語は習ったことがないんだろう、マイセルよ?」
「はい」
「しかし、この書物の一節は読むことができた……」ロギヌスは鋭い眼光を見せた。
「そうなりますね」とマイセル。
 マイセルはロギヌスが何をいいたいのか、はっきりと把握できないことにいらいらしはじめていた。この歴史家はいったい、何をいいたがっているのか? 含みのあるいいかたは気を揉ませるだけで、なんの成果もあげないことに気づいていないんだろうか? マイセルはそんなことを思いながら、歴史家の次の言葉をまった。
「そなたがいった箇所はどうやらpower spellの大本になっている頌の一節らしい。これが読めたということは、やはり、そなたにイルメル語の素養があるということかもしれん」
「えっ?」マイセルとセシルは同時に驚き、そして両者はお互いの顔を見比べた。
「でも、イルメル語の魔導書なんて、僕には読めません」マイセルがきっぱりと断わる。
「いや、そなたにはなにか魔力の片鱗が見受けられる。かくいうわしも僅かであるが魔力を有しておる。そのわしが感じるのだ、そなたと酒場で出会ったときから、気になっておった。いったい、どれほどの魔力を有しておるのかはわからぬが、確かにそなたの中には魔力の萌芽がひそんでおる」

蒼幻 [bjNkF-qOIte-oYcZY-hpTCf] Mail HomePage 2008/01/27(日) 11:07:47

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